隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

♯17 或るボーダーを越えたのかも知れない

空は鈍よりと曇ってゐた。嗚呼、もう直ぐ夕立が降る。全体が鼠色にまぶされて居り、所々の純白の雲にさえ何か不吉な輝きが孕まれた。空はどうやら自らを重くする水分をこれ以上堪え切れない様子で有った。しかし其れが落す液体は泪などと云う美しい物では無さそうだ。つまり、小便。

そんな天気の中、私は或る一つの隧道に入り込む運びと為った。平時から私は隧道が好きである。あの鬱蒼とした茂みの間にぽつかりと開いた穴は異界への入口に思えるし、即物的に考えても、あれは山の胎内へ闖入しているような心持を得る。また、内部に張付き固められた混凝土は外界の温度を吸い込み、嘗てその通り道を最初に切り開いた名も無き労働者達が偲ばれる。端的に言って湧く湧くするのだ。

その高潮が知らぬ間に肩を伝い、肘を伝い、掌に達する。時速が九十機炉を越える。良い感じだ。私は私を昂らせる科白を幾つか吐いて、その呟きは隧道内部と外部の明暗の圧力差に消える。直後体が黒く陰った。

その隧道は此れまでとは何か幾分異なった情趣を滲ませていた。照明灯は其なりの間隔で其なりの光度を保ってゐたが、不思議なことは気温と同じように明るささえも、内部の冷たき壁が吸い捕る様だった。地面は所々濡れ、其処から引き摺られた轍が何本も過去の自動車の動きを記録していた。遠くの方に気のせいほどの鈍光が見えるが正確な距離を測る事が出来ない。言い知れぬ孤独が外套を冷やした。世界で生きているのが自分だけであるように感じられる。内部に残響する排気の音も、まるで無機質に予め決まっていた作業がただ予定調和に行われているだけの様である。

其の辺りを認知した頃には私は随分精神が不安定に為っていた。先ず、対向する軽自動車の雷斗。一瞬の眩惑の間に世界を見失いはしないか。そして回送を示し走る巨大な場素。闇の中を走る其れは深海を彷徨う魚を彷彿させる。日中の黒塗りされた様な外装から一変、内臓が透視できる様なのだ。しかし直感に従って言えば、それは生きて居ない。

出口は未だなのだろうか。早く此の不気味な空間を脱したい。外は恐らく腹痛の様な鼠色が支配して居るで有ろうが今は其方の方がよつぽど健康的じゃないか。

気が付くと後ろの方に二つの雷斗が見えた。後続の車である。焦りは妄想の悪競るの操縦者である。
「あれは私を追い掛けて来て居るのでは無いか」
無意識にそんな脅迫的な妄想が生れた
「そしてあれに追い付かれた時私は全身からすとろうで吸われる様に精魂を抜き去られるのでないか」「そして何処に出して恥の無い模範的肉体と、残滓の精神だけが取り残されるのでは無いか」

気が付くと時速は百十機炉を示してゐた。出口の光は近付いた。が、後続とは私が紐で引っ張って居る様に距離が変わら無い。もしかするとあれはずっと私を追い駆け続ける積りなのか。危険な速度も自我の保持も、全て徒労に帰すかも知れない。諦めは不屈より早く身体を循環し精神を慣れさせる。対決より回避が賢明な局面も有る。誇大妄想に侵された
ヒロイズムで絶えぬ瞬間瞬間を生きようとする事の馬鹿馬鹿しさ。此の不気味さも、後続の脅迫も、全て私の感覚器官の産物でしか無いのだ。殊更感覚を鋭敏に生きるのは苦難への舵取りであるだろう。

気が付くと、その隧道は後方に去ってゐた。漸く思考が正常に蠢き始める。視界は俄に澄み、淀んだ不気味さに中られた頑迷さも、時速と共に急速に脳から剥離して行った。気が付くと私は自分が何に苦しめられていたのかが思い出せなくなってゐたので在った。

太股に不快な水分が付着した事に気付く。遂に雲は漏らした様である。私は、後続の車が百米取程後方で左折した事を認めつゝ、そして何事も無かったかの様に走り続けて行ったので在る。



あ、羅引印(らいんすたんぷ)ができました

https://line.me/S/sticker/1501435