隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

おがわくん♯1 ♯下郎売り

初めまして、今日からブログデビューしました。

タイトルから分かる通り、私にはあまり今時のセンスはないようだ。

私は今まで努力というものをしてきた実感がないように思う。もしかしたら当時は努力していたのかもしれないが、今の自分に努力という意識はない。

もしかしたら努力ってそういうものなのかもしれない。ゴールに向かって何度もボールを放ったことも。記憶にはあるが今の自分には思い出の一部になってしまっている。

努力はその時には苦しいもの、しかしその後の人生において努力したことは一つの自信にこそなれ、苦しみは当時ほどに思い出せない。

♯24 さつぽろぽろぽろ

久々の札幌に帰ってきてだいたい一週間が過ぎて、少しずつ気持ちも住んでた頃に近づきつつある。しかし何とも、この街で自分が二年間も生活していたという実感が生まれづらい。

一つは、札幌を去るときと少しずつ風景が変わっているからかもしれない。まだ四月は道の脇に茶色い雪がうずたかく残っていたし、札幌駅にニトリもなかった。小さな小さな少しの差異が、微量ずつ違和感を堆積させているのかもしれない。

一つは、自分はもしかしたら本当にこの街で生活したことがなかったからかもしれない。僕は本当は札幌に居たことはない。僕はある時点で何者かに昏倒させられ、脳内に電極を差し込まれて二年間の北海道、札幌の記憶を植え付けられたのだ。北海道のぼくを知る人間も、本当は居なかった僕の存在を同じように植え付けられている。理由は分からないが。それが少しずつ解けてきているのかも。

一つは、まだ実感を感じさせられるようなことをしていないからかもしれない。こっちに来てまだ一週間だが、馴染みの場所、人に会っていない気がする。僕がここに暮らして、曲がりなりにも僕であり続けたことを証明してくれるような場所、人。時に見下し、時に認め、時に賞賛した場所、人。人間として最も大切なものかもしれない。

ところで、その場所、人はまだあるのか。いるのか。頑強な巌でさえ時の流れに朽ちてゆくこの世界で、帰る場所などあり続けるのか。もし僕が僕であったことを認めてくれるであろう場所、人に対面したとして、それらが僕が僕であったことを認めてくれなかったら僕はどうなるのだろう。この可能性を辿っていくとその先は深い孤独だ。でもそうなのだ。無いものは無いとして時間は進んで、あったようには見せかけられない。なにもかも、変わらずにはいられない。

変わってしまったものよ。時の流れに勝てる者はこの世におらぬ。でもどうか、その奔流に一本の、僕というくさびをうちたてて、少しの痛みを感じてほしい。

こいバナはるき♯2 深夜に走るバナ

深夜に走る。別に走りたいわけじゃないけど、でもどうした訳か走らなきゃいけないって思う瞬間がある。しかも深夜に。部屋着のまま運動靴を履いてお気に入りの曲を片手に部屋を出る。階段を下りているとき、まるで深海に潜っていくような感覚になる。夜だと少し肌寒くも感じる。2,3回アキレス腱を伸ばして走り始める。

 ランニングコースを特に決めてるわけでもないが何となく大学の方に行く。通り過ぎる飯屋とか遠くに見えるコンビニとか、あーそういえばここにも来てたなーとか最近は行かなくなったなー、なんてぼーっと考えながら走る。大学構内にはいってからもそうだ。ここはあの時に集まった場所で、あの日の帰り道で、なんて気付いたら考えてる。

 大学に入って人通りも無くなる。そこら辺まで来てやっとなんで走らなきゃいけなかったか気づく。どうしようもなくなってたんだ、心が。たぶん人に話しても伝わりにくい話だと思うけど、心がもうどうしようもなくなる事があるんだ。それは別に何が原因ってわけじゃなくて、2限に遅刻したことだったり、面白い映画を見たり、今月も金欠だなって思ったり、あの娘が可愛かったり、昔の自分を思い出したり、そういう一個一個はどうってことは無いんだけどそういうのが積み重なると、どうしようもなくなるんだ。

 そんなこと考えてると札幌駅の方まで来ている。行きと同じ道で帰るのもつまらないなって思い、大学横の道に出る。深夜でもまだ歩いてる人がいてどんどん追い抜いていく。あぁ、もしあの日あの場所で告白とかしていたら、いま追い抜かしたカップルは自分とあの娘だったのかな、もし、もうちょっとだけ正直だったら、もしもっと面白い人間だったら、もっと身長が高くてカッコよくてオシャレで優しくてお金持ちで頭が良かったら、そんな理想的な人なら今こうして深夜に走ってることなんてないのかな。

 遠くに信号が見える。自分の家までの最後の信号だ。ふと思う。あの信号が変わるまでに走り抜けられたら、何か変わるかも。そんなことでなんも変わらないことぐらい分かってるけど、疲れてきた体と頭ではそんな気がしてくる。スピードを上げる。息が苦しい。お腹が痛くなる。それでも速く。さっきまでごちゃごちゃ考えてたことが全部後ろに置いていく。体は限界で、頭は空っぽで。信号の点滅が見える。ああ間に合わないかもしれない、でも間に合うかもしれない。だからもっと速く。足を止めればもう苦しまなくていいのに、何も変わらないって決めつければ走る必要もないのに。それでも全力疾走を辞められない、諦めきれない。むしろこの時間が永遠に続けばいいのに。いつまでも信号が点滅し続けて、いつまでも家に辿り着かないでいれたらいいのに。

なんていうこいバナはるきでした。

♯23 なつやすみにっき

8がつ5にち土よう日。てんき、晴れ。

今日は、夕方くらいまであきひさの家であそんで、こうえんに行った。ぼくと、あきひさは公園のおかに上がって、がくやとしゅんは鞦韆で遊んでた。そしたら、さっきまでグランドであそんでいた小学生男子たちもおかに上がってきた。『お兄ちゃんたちなにしてるの』ってきかれたから、『あそんでるよ』って答えた。『せいじん男せいなのに?』っていわれた。かなしかったです。


きゅうに、二、三人がおそいかかってきたので、もち上げてあげた。そしたらだれかがなぜか『たおせー!』っていって、小学生男子にたおされることになった。かなしかったです。

ぼくは一人おんぶだけだったけど、あきひさにはさん人くらいぶらさがっててかわいそうだった。うしろにけはいがすると思ったら、だれかがぼくのおしりに石をつきさしました。ぜったい先生いう!

ぼくは、がくやとしゅんもなかまに入れてあげたかったので、小学生たちに『あそこにもぼくたちのなかまがいるよ~』っていってあげた。そしたらみんな走っていってふたりにおそいかかってた。がくやとしゅんはにげてたけど、二人ともすごくうれしそうだったので、うれしかったです。

小学生はみんなすぐ土をもったり、木のえだをぶきにするので、『おとこだったらみひとつでこいよ!』っていったら『だっておれたち子どもだもん』っていわれた。いいかえせなかった。『がくせいってこんなにあそんでていいものなんだ』っていわれた。まったく、かんのいいガキはきらいだよ。

あきひさが、サンダルを強だつされたので、小学生四人と、ぼくら二人ですもうをして、こっちがかったら返してもらうことになった。小学生はぜったい塩をまくのをわすれなかった。二、三回太ももにひざをいれられたり、はらにパンチをくらったけど、なんとか勝つことができた。何かいやなよかんがしたけれど、案のじょう『三回勝負だもん』って言われて、最終的に『外に出ても二回までは復活オッケー』まで譲歩することになった。大人げなく勝った。

勝ったのに、一人が伊勢川のサンダルを腕に挟んで返そうとしなかったので、『お話しよう』といって近づいたときに奪い返した。さすがに大人げなかったので謝った。

30分くらいのんびり公園で遊んで帰ろうとしてたのに、結局1時間くらいここ最近の中で上位に入るレベルの激しい運動をすることとなった。今後公園で小学生と遊ぼうと思ってる人に忠告。小学生男子は楽しいと思ったことは永遠にやり続けたがるぞ。

8月5日土曜日。天気、快晴。

夜になって、何となくさっき遊んだ公園が見たくなったので行ってみた。騒がしさはノスタルジックな街灯に打ち消され、耳に残る、あの声変り前のヘリウムガスを吸ったような声を思い出す。近くのマンションの一室から、優しいオレンジの光が漏れている。そこから、その声が聞こえたような気がした。

かたはらいたし#2

【悲報】きたはらのかたはらいたし、不評。
どうやらアクセス数が大橋、稲葉に比べて少ないらしい。まさかあんな感じに数字で表されると思わなかった。棒グラフて。ノルマきつめの不動産企業か。


内容もまぁまぁ不評。「全然モノ申してないじゃん」「タイトル関係なくね」「なんか、ここ面白いと思って書いたんだろうなと思いながら読んだ」等。

最後の「なんか、ここ面白いと思って書いたんだろうなと思いながら読んだ」は大変悪質。こいつは最初の「ノルマきつめの不動産企業か」のくだりで同じ読み方をしてニヤッとしてるに違いない。そんな見方して上に立った気でいてんじゃねーよ。そういう態度でいるから頑張らなきゃいけない局面で余計なことばっかり考えてうまくいかないんだよ。さっさと宮城の実家に帰れ。愛してるよ。

好評な意見として一番多かったのは「読んでない」であった。あと読んでくれるのはありがたいけどラインで「きたはらのかたはらいたし」とだけ送ってくるの止めろ、複数いたぞ。含み笑いで「ブログ」とだけ言ってくるのもやめろバカタレ。愛してるよ。

(思いっきり改行、前回のやつ改行少なかったですよ)












【ここから前回の続きです。前回を読んでいない不届きものはリンク(http://roadofza.hatenablog.com/entry/2017/07/30/091757)から飛んで記事のアクセス数を増やして頂きたい。他の記事は読まなくていい。】
前回「きたはらのかたはらいたし」が投稿されたのはちょうど一週間前の9時すぎごろだった。書いたものを伊勢川さんに送り、それを伊勢川さんが投稿するという形をとっているので、僕が書いた時間と記事が投稿される時間にはズレがある。

前回の記事が投稿された9時すぎごろ、私たちはビックカメラ札幌店に並んでいた。明らかに、前の週より人数は多かった。しかし当たるという確信があった。だって人集めたし。人に頼み事できるようになったし。事前に集めた人数17人。「人多いねー」「超倍率高いじゃーん、無理だよムリムリー」口ではそう言いつつこっそりほくそへむ、こっちは17人ですわ。いや自分を含めて18人。「11人いる!」より7人多い。あと二人いればAKBの初期メンの人数である、中西里菜平嶋夏海が足りないがまあいい。これは、勝ち。

15分ほど並んで番号の印刷されたリストバンドをされる。しかし前回ほど祈る気持ちはない。俺が外れても、分身が17人いる。
分身たちにラインを送る。「今日はありがとー、番号何番だった?」
次々に番号が送られてくる。いい感じで番号が散らばっているので当たる確率も高いに違いない。完全にほくそへむを通り越したニヤケ顔で番号をメモする。たぶんキモかった。
……しかし結構な人数、既読すらつかない分身がいる。

嫌な予感が胸をよぎる。青春ア・ミーゴ

どうなってるの!?9人しか確認できてないわよ!このままじゃノルマ危ういじゃない!ブラック企業のワンマン女社長ばりのカナキリ声を上げる。

11時。抽選受付から1時間ほど過ぎたころ通知が立て続けになる。
「絶起」「今起きました」「すみません起きれませんでした」「」「」「」」」」」」」」」

ボムンッと、分身が消える音が聞こえる。チャクラ切れである。なんてこと!労働基準監督官の登場に女社長も真っ青である。結果9人、想定の半分。私が甘かったというの!?
AKB48が118人であることを踏まえれば半分以下になることは想定してくべきことだったというの!?

12時。ツイッターにて発表された当選番号と目の前に並んだ9人分の番号を見比べる。。頼む当たってくれ……!めっちゃ祈った、さながら祈祷師…いやこれは流石につまんねぇわ。スプラトゥーンスプラトゥーンスプラトゥーンスプラトゥーンスプラトゥーン!!!

イヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
箱がもうカワイイ!箱がもうカワイイ!箱がもうカワイイ!箱がもうカワイイ!箱がもうカワイイ!!!!開封!ほらほらほらほらジョイコンのカラーカワイイ!イカしてる!すごい好き!すごい好き!愛しきMy Angel !明日数学テストだけど!


はしゃぎまくって当たったという旨のツイートをしたところ同期年上女子から「こういう話題見る度に世の中っておひとり様に厳しくできてるなって思う。おめ」というリプライが来た。急に後ろめたくなった。最後にとってつけたような「おめ。」がもう。

当選番号の発表はゲーム売り場のレジ横でもされており、購入するためにはそこに並ぶ必要があった。外れて泣く子供たち。ぐずってその場を離れようとしない我が子を怒鳴りつける母親。その横のレジに並ぶ当選が印刷されたリストバンドをしている自分。「こういう話題見る度に世の中っておひとり様に厳しくできてるなって思う。おめ」



あれから一週間、無事すべてのテストを終え長い長い夏休みに入った。モッティーの実況プレイ動画(https://www.youtube.com/user/MOTTYGAMES)での予習の成果もあって0から始めて一週間とは思えない立ち回りをみせている。だって僕はあの子たちの分まで楽しまなきゃいけないから。ガチマッチはまだ怖くてできず、ナワバリバトルばっかりだが。

いせがわ♯1 Road of座に名を連ねるバカを紹介する参

ブログを開設したのが6月15日。
今日が8月5日だからまぁざっと50日経ったわけさ。その間ブログの記事を受け取っては投稿するという事務作業を繰り返していたんだが、遂に重い腰を上げて僕が書かなくてはいけなくなってしまった。ナンテコッタ

ちゅーわけで、めんどくさいけど大橋の紹介文を大橋に代わって書いてやろうと思う。



大橋拓真君は現在22歳。誕生日の兼ね合いで伊勢川(20)と比べると2歳も違う。

22歳というとジョンレノンがビートルズを結成し、ピカソが青の時代の傑作「人生」を発表し、白鵬横綱になり、星野源大人計画に加入した年齢。

しかし何をおいても、順当に進学した人間が大学を卒業する年齢である。ヤッベ。


大橋君はこの22歳の前半をバンクーバーとフィリピンで過ごすらしい。何をするのかは皆目見当もつかないが、異国の地で何か見つけて来てくれたらいいな。できれば自分以外で。




伊勢川と大橋君の出会いは本質的には「あふたーむーびー」っていう芝居なのか。芝居っていうのもおこがましいけど。とにかくその芝居で大橋君は役者賞を取ったんだけど、それが彼の中で分岐点になったみたい。

でかい声と悪くない滑舌と、生まれ持つエンタメ性が売り。

いつだか意気投合して自分たちの団体を立ち上げた。斜に構えてるやつと三人で。
でも、僕の脚本だったり演出と、彼の役者だったり、稲葉のもろもろだったり、ガチッと相性が良いわけじゃないと思う。それでも一緒にやり続けているのは、なんでだろうか。



女と付き合って面白くなくなる人たちを散々馬鹿にしていた大橋君だが、久しぶりに会った彼はしっかりとその自慢の面白さをどこかに置いてきてしまったようで、後輩の北原に散々馬鹿にされる日々を送っている。

大阪が生んだ稀代のエンターテイナーの復活が待ち遠しい。


ちなみに今体調を崩して伊勢川宅で泥のようになっているけど、助けてなんかあげない。彼はかつて僕を東京湾に沈めようとしてきたからね。



【大橋拓真出演舞台】

2015年8月 どうぶつえん(劇団しろちゃん)

2016年2月 ピュアでセンチなへん態はスポーーツみたいな瞬かん速度(劇団しろちゃん)

2016年5月 ロックでカゲキなセカイ(劇団しろちゃん)

2016年6月 ジョゼフ・コーネルの 箱にまつわる 奇妙な冒険(劇団しろちゃん)

2016年6月 あふたーむーびー(劇団しろちゃん)



2017年2月 ジュリエットは誰(劇団しろちゃん)

2017年3月 みぐるみ(Road of座)

2017年8月 そいつのまわりをぼくたちは(Road of座)

♯22 奈良県の鹿は大変なんだって

奈良ならではの名物といえばそれはもう鹿である。東大寺などの周辺に広がる奈良公園には昔から鹿が生息しており、訪れた観光客に思った以上の重さで寄りかかってきたり、しかせんべいをゆすったりと大人気である。しかし鹿ってけっこう難しい存在なんだって。そういえばこのブログってぼくが『コラム』を書く場所だったんだって思い出した。

奈良公園の鹿は昔から神の使いであるとされ、1957年には国の天然記念物にも登録されてそれはもう大切に保護されまくっている。まあぶっちゃけあいつら、ただ奈良公園で芝食ってフンして座ったり走ったりしてるだけなんだけど。でもそれがすごいらしい。というのもあいつら春日大社から祭られているんだけど、扱い的には野生らしいのだ。ていうか、人の生活のごく近くに野生の鹿がいるということが天然記念物に指定された背景なのである。だからあいつらに餌をまかなう義務を負った人はおらず、公園内で死んでたりしても、別にその遺骸を片付けなければならない人もいない。明確に責任を持った人はいないのである。野生だから。あと天然記念物の鹿ってのは奈良公園の鹿だけで、そこ一歩出ちゃうと神鹿からただの鹿になってしまうらしい。人間の線引きで神か否かが決まるとは、もはや神は人間なのではないか。

で、そうやってみんながかわいいかわいいするもんだから、自然のルールからいくぶんずれて鹿が大量に公園内に生息することになってしまった。平成29年7月の調査では公園内の鹿の総数は1498頭にまで増加していたらしい。天然記念物指定時には498頭だったというからこれはすごい数だ。芝のキャパシティ、もとい芝シティは大丈夫なのだろうか。

つまり当然ながら芝シティがオーバーしてしまっているという事なのだ。そりゃ鹿だけ3倍増えて芝シティは変わってないんだからそうなるわな。鹿としては食べる芝が少ないので人里の畑を荒らしたり、車道という、道路交通法が支配する魔境に足を踏み入れることになって、残念至極、ファイッする。

で、最近ついにそのような現状を止めるべく奈良県は公園内の鹿を捕獲するという動きに出た。ここまで来るとそれはもう、せざるを得ないということだろう。とりあえず試験的な120頭を捕獲する計画らしい。それでどうなるかは未知数であるが、年間60億とも言われる農作物への被害減少や自動車などとの接触事故防止に向けた嚆矢となってほしいものだ。

案の定動物愛護団体から捕獲中止の要望が出されているらしいが、正直彼らはこういう文脈を理解した上での行動なのだろうか不安である。県はこれまでもそのジレンマに人知れず悩まされてきた。鹿はその愛くるしい顔で我々に捕獲中止の協力をせよと迫ってくるが、それに応えることが本当にやつらを大切にするということなのか、落ち着いて考えてみたい。「鹿かわいい~」とSNSで拡散するのは県でも愛護団体でもなくて、我々なのだから。

優しい言葉を囁くことだけが、本当の愛情ではないはずだ。冷たく突き放す愛もありである。