隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

♯6 『屠殺人ブッチャー』を見てきた

そうそう、こないだ24日に下北沢でお芝居を一つ見てきたから、今日はそれの感想とかそれにまつわる色んなところをつまみ食いしながら書いてみようと思う。芝居の感想だから、見てない、いやそもそもそれがあったのも知らなかったよって人もいると思うんだけど、我慢してほしい。出来るだけ分かるように書くつもりだしね。でももし、読んでくれている人の中に、この芝居を見に行く予定がある人がいるならネタバレになってしまうので読まないでね。

下北沢は僕はすでに何度か足を運んだことはあった(ぜんぶ観劇なんだけど…)。そこはサブカルチャー関連(言葉の定義はよく知らない)のメッカと呼べるようなところで、劇場やライブハウスなんかがたくさんあって、ちょっと歩くだけで自分が変わり者だと思ってたことが恥ずかしくなるような場所だ。
劇場で言えば「本多劇場」「ザ・スズナリ」「B1」「シアター711」とかがあるかな。余談だが、本多劇場のホームページは界隈の劇場の公演情報をまとめてくれているのでとっても便利だ。あと話が逸れるついでに。「アンゼリカ」ってパン屋が近くにあるんだけど、うまい。池波正太郎が愛したカレーパンもいいけど、こないだピロシキ食べてもおいしかった。下北沢に来たら観劇のお伴に是非行くといいと思う。
長くなったが本題に入ろう。『屠殺人ブッチャー』はカナダの劇作家ニコラス・ビヨン原作を名取事務所というところがやったもので、23~30日が公演期間。場所は「『劇』小劇場」と言う。一般前売り4000円に対し学生は1000円だというのだから学生としてはおいしいところ。
架空の国家で過去に起きた凄惨な内戦をめぐる復讐の連鎖についてのお話(だと思った)。物騒なタイトルと裏腹に90分間の舞台は全てトロントの警察署内で終始する。「屠殺人」の二つ名を持つ内戦国の大将だったブッチャーが瀕死でそこに運び込まれ、警部、ブッチャーが持っていた名刺の弁護士、女通訳(英語が話せないため)の三人が彼の素性を探っていく。…
良かったところは、三人の関係性が話の進展と共に思わぬ変化をしていったところ。最初は赤の他人の四人、弁護士がブッチャーの息子だったこと、女通訳が戦時中ブッチャーに凌辱された少女で、他の高官と同じように私刑でブッチャーを殺しに来ていたこと、そして最後、家族を人質にとられ通訳に従わざるをえなかった警部も実は女通訳の仲間で、そもそもそこは警察署に似せたその組織のアジトだったこと…。その関係性の変化(普通場転がなかったら関係性の変化を見せるのって難しいよね)を服の下の傷痕、あらかじめズボンの下に用意していた血まみれの包帯などで自然に表現しててうまいな!ってなった。
あと警部、弁護士、ブッチャーの演技が桁違いにすごかったんだコレが。普通欧米の人のジョークを無理やり翻訳して話してみてもどうにも『そぐわねえ!』ってなると思うんだけど、警部のそれは全然そんなことなかったからすごいと思った。あと目の配り方とか、さも今思い付いたよーうな動き方とか、痛がり方とか、「あ、レベルが全然ちがうや」ってなっちゃった。「舞台上で生きる」ってみんな言うけれど、それって別にフィーリングでやれってことじゃないよね。緻密に緻密に動きの意味を持たせながらやってこその「生きる」なんだな。フィーリングでやった時の「生きてる」ってそれ、演者が生きてるのであって役が生きてるではないんじゃないか?(嗚呼…)
好きじゃなかったのは、通訳の人の演技(この人だけ演技してるように見えた)と、あまりに救いの無い展開かな。復讐に燃えているからって、いつも怖い顔してたりいつも声色が怖めだったりするとそれはそれでわざとっぽく見えてしまったりしてしまって、いやまあ難しいよなあ。救いがないってのは、「僕は復讐したりしない」っていう最後の弁護士の言葉以外に救いのあるセリフも動きもなかったって事で、見ててつらかった…。架空の国家と言いつつ旧ユーゴとかでの内戦をモチーフにしている話だったので、変に救いのある話にはしたくなかったんだろうけども。
しかし、舞台でお客さんにスリリングを感じさせられるってものすごいことだよなあ。ちょっとでも演者が見えたら冷めてしまいそうだし。脚本もとてつもなく練られていて見応えが半端なかった。作者のニコラス・ビヨンという人は40歳手前の新進気鋭らしくてカナダで今一番勢いがあるっていう人らしい。カナダ行ったら是非向こうで彼の舞台を原語で楽しむことにしよう。

♯5 印象に残った人たち

今回は旅行している間に出会った人たちの中で特に印象に残った人たちについて雑記のようになりますが記録していきたいと思います。
K氏
静岡県磐田市のスナックにて。童貞を快く思わない仏教徒の陶芸家。そのスナックに併設されたライダーズハウスに月一で泊まりに来ているらしい。悩みは東京の母がすぐ自分を呼ぶこと。「若くても年寄りみたいに訓を垂れなさい」とアドバイスされた。
S氏
群馬県嬬恋村テーマパークにて。普段は映像クリエイターの仕事や文筆の仕事をフリーでやっているらしい。またインディーズで映画もいくつか撮影した映画監督でもある。石原さとみ広瀬すずを足して2で割った彼女に数年前フラれた。当初28歳と言っていたが問いただすと33歳だったことが発覚、おしゃれなイタリアンと言いながらサイゼリヤに入っていったため少し信用度を落とした。
Y氏
青森県津軽竜飛岬にて。人は家がなくても生きていけるのかを検証するため定職と家を離れホームレスしながら生きているらしい。今一番の関心事はホテルフロントに先日導入されたpepper君の知能(pepper君VSsiri~仁義なきガチンコAI対決~を夢見る)。3歳から21歳まで狂言を習い、狂言師野村万之丞の弟子だったらしいが師匠が怖すぎたためやめた。津軽弁が聞き取れない際に通訳してくれる38歳ナイスガイ。
足利のおっちゃん
栃木県足利市の古き昭和の雰囲気を残す銭湯「花の湯」湯船にて。熱くて浴槽に入れないところを見て冷水を出してくれた恩人。「定年したら広辞苑を一ページ目から読もうと思ってたらもうそんな時代じゃなかった」という話が印象的。人当たりの良さから小学校の教師かもしれないなどと予想する。足利にまた寄るとおべんちゃらで約束してしまった。「花の湯」は「湯を沸かすほどの熱い恋」のロケ地となったので有名。
続く…

♯4 「新人発掘オーディション」受けてみた

「新人発掘オーディション」受けてみた

ここ一年ほどずっとTwitterで宣伝が出続けている「ドリームワークスエンターテイメント」という会社が開催している「新人発掘オーディション」なるものを前一度受けたことがあります。このオーディションのうたい文句は阿部寛を発掘した監督に自分をアピール出来る!や、映画への出演の確約!というようなもの。なんとなく胡散臭いと思いつつ受けてみなければ何もわからんと思い受けました。

結論、受かった。

平日の正午の時間にも関わらず僕の他に20人程いました。形式はオーソドックスな感じでした(詳しく書いたら怒られそう)。一次の実技が通った人が二次の面談に呼ばれ様々な説明を受け合否が発表されました。

ポイント①

合格したらこの会社が運営する講座のような演技教室に半年から一年ほど通い、映画に出演するという話だがレッスン料は取られる70万(広告に書いていない)

ポイント②

出演する映画は業界内で発表するだけであり全国配給の映画ではない。

なんかうさんくさくね?と思いやめた。

ちなみに阿部寛を発掘した監督というのは佐藤雅道監督という人で「はいからさんが通る」という映画で阿部寛を起用してます。見てないのでそれについてはなんとも。

それにしてもオーディションってビジネスとなるとやる側も受ける側も大変だなと。確かに素人が映画に出演するとなると一定期間はその訓練を受けなければならないという理屈はある。しかし広告の段階ではそんなことは一切書かれないし、ましてやお金がかかることは知らされない。なので受ける方からすると「もし受かったらすごい優遇された立場でピョンと映画に出れるのでは!」と思ってしまうのも無理からぬ話。また、オーディションというものの性質上当然大半は落とされるという運命にあるわけで、このオーディションはイカサマだから受けない方がいいよ!と喧伝する人は落ちた腹いせにそんなことをしているのかもしれないし、もしかしたら本当にイカサマなのかもしれないとも思ってしまう。また僕も、合格したけれど、もしかしたらほとんどの人に合格!と通達して講座に通ってくれそうな人の母数を増やしているのかもと疑心暗鬼になってしまう。しかしオーディションだから本当にすごい人がたくさんいて、それを全て採っただけだと言われるともう反論の余地はない。

いろいろ書きましたが、結局のところ素人が数分で申し込めるオーディションにはそれ相応の限界があるという事のような気がします。全国配給レベルの映画のオーディションなんてのは基本的に事務所やプロダクションでしか行われていないのではないでしょうか。やっぱりそうそう都合のいい話ってないんですね。今日も夕陽を見るのが楽しみです。

♯3 道って不思議だ

「道なき道を進む」なんてことばがあるけれど誰が街路樹を叩き倒すだろう?誰が高い塀を乗り越えるだろう?誰が立ち入り禁止のビルを横切るだろう?

このことばを人生レベルで体現しようとする人は数知れぬのに、いったいどうしてその人たちの毎日は今ある道に縛られて送られているのだ。

昔、小学生の時くらいまで、道はなかった。公園の植え込みにボールが飛び込んだら躊躇わずかき分けて取りに行っただろうし、壁という壁を見ればその次には「どこに足をひっかけて登ってやろうか」などと考えていた。ゲームのキャラクターが、イベントをこなさねば行くことのできないエリアに行けない時どうしてこの柵を乗り越えて行かないのかなどとイライラしていた。

時が経ち、背も高くなり、昔その高さに悔し涙をのんだ壁さえも今ならばやる気ひとつで乗り越えられるだろう。しかし、しない。体裁の壁が乗り越えられないのである。

他にも車で、電車で、バイクで、どこかへ行こうと思えば普通地図を見る。どの道を使おうか、高速道路が味気なければ国道を使おうか、いや県道の住宅街を駆け抜けてもよい、そんなことを思案するだろう。電車の場合は路線図を調べるだろう。しかし自由を豪語したとしても、道路のない場所(陸の孤島)には行くことができないし、駅のない場所には降りることができない。なあんだ。と思った。どんな権力者も重力の作用に従っているように、今ある道に従っているのである。かわいいものである。

そこで我々に課せられた問題はこうである。道なき道【未知】は存在するのか?道なき道【未知】は認識できるのか?道なき道【未知】を選び抜く体力はあるのか?道なき道【未知】は我々を招待してくれているのか?我々はその問いに答えることが出来るのか?

我々はその問いに答えることが出来るのか?

我々はその時に確かな手応えを持てるのか?

road of座という名には途方もない宇宙が込められているのである。


♯2 ことばを友人に

『どこでもいいから遠くへ行きたい。遠くへ行けるのは、天才だけだ。』

これは寺山修司の「煙草」という詩の文である。最近私はよくこのことばと共に生きている。思えば幼稚園児の時は小学生になれば友達がもっとほしいと願い、小学生の時は中学校ではもっと難しい問題を解けるようになりたいと願い、中学生の時は高校では素敵な恋愛がしたいと願い、高校生の時は大学では時間と体力の許す限り旅に出たいと願って生きてきた。おそらく人により程度の差こそあれ、大学に対し大いなる「自由」への期待を膨らませた人は多いのだと思う。

しかし蓋を開けてみるとそうすぐ実現しないものである。体力があっても時間がないし時間があっても体力がないということになる。この二つを揃えることは至難の技であり、まさにその二つを手にしまだ見ぬ世界への不安にうち克ち、旅立つことは確かに天才の所業と言って過言はないだろう。天才は言い訳しないのだ。

ちなみに表題の「ことばを友人に持ちたい」というのも寺山修司のことばから引用させていただいた。自分のせいでどうしようもない失敗があったとき、夜に孤独を試されたとき、先人(に限らず)のことばというのはとてつもない頼りがいのある友となると思う。それで言うと冒頭のことばは私の無二の友人である。そういえば古代のインドの思想での真理に「梵我一如」というものがあるがこれももしかしたら同じようなことなのかもしれない。すなわち、古今東西を問わず自分は(自分の置かれている状況は)一人ではない、ということである。

「友」を「孤独から救ってくれるもの」であると定義したとき、一体どれだけのものに親愛の眼差しを向けて生きていけるのだろう。(コラムって『である調』じゃね?!ということに気づきました。)

♯1 邂逅の朝

皆様ご無沙汰しております、road of座代表(一応)の大橋でございます。

第一回旗揚げ公演「みぐるみ」も既に3ヶ月前のこととなり、ようやくいろんな人の記憶からroad of座が消えかけてきたことと思いますので、ここいらでズブラビラッと再び進撃の狼煙を挙げていこうと思っております。

さて、このブログは隔日でコラムを書けという伊勢川くんの要請で始まったものであるわけですが、コラムってなんだよ。隔日で書くとなるとどう考えてもroad of座のことから次第に僕個人のあれやこれやに変わっていくに決まってる…。そこで、賢明な皆様におかれましては、この駄文は電卓で遊ぶくらいのもて余し方をしてるときなどに読んでいただけたらと思います。

と、言いつつ!road of座第二回公演が8月下旬に行われることなどなど!!(たぶん)、road of座についての重要な情報発信もここでしていくこととなると思いますので、お付き合いいただけたらこれ幸甚、といった感じでございます。それではまた明後日。