隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

♯62 「死線や修羅場を越えてきた」

成長とは当たり前のレベルが上がることだ、と為末大は言った。これはとても深い次元で僕にモチベーションを与えてくれる言葉となった。周りのレベルに自分がついていけないとき。周りのレベルの低さに甘んじて努力を怠るとき。成長したいと思ったときの初動について。などなど、思い起こす時は多い。試しに、高校のレベルについて考えてみる。なるほど難関とされる高校からは、やはり難関大学への進学が普通である。そしてそれよりランクの低い大学へ行くと、落ちこぼれになる。だが、それほど難関でない高校からすれば、その落ちこぼれが行った大学が大成功と見なされているのだろう。その高校からすればたいした秀才である。結果が同じなのに片方は落ちこぼれ、片方は秀才となるこの理由について考えてみると、もちろん最初に元々の地頭の良さなどと言ってしまえるわけだが。僕には前からどうもそうは思えない。僕はこの違いの理由が、「甘んじて落ち着くとまあこのレベルだよね~」という印象を流布する周囲のレベルが違ってしまったということだと思う。そして実際、そのような印象操作というか、ある意味洗脳と呼んで差し支えない周囲からの圧力が集団を同質のレベルにしてしまっていると思う。

ところで、自分の経験に説得力を持たす言葉として、こんなものがある。

「今までどんだけ修羅場をくぐり抜けて来たと思ってるんだよ」

理解に難くはないがあえて分かりやすく言い直すと、

「今回の苦難よりももっと大変な状況を経験してきて、そのレベルに僕は慣れている。だから僕にとっては、今回のレベルはそんなに深刻なレベルじゃない。簡単だ」

ということになるだろう。「慣れ」というのは人間の能力の中でかなり重要なものである。小さいときに歩くことを覚えてから今まで歩けているのも「慣れ」言葉をしゃべっているのも「慣れ」手を洗うのも、お風呂で体を洗うのも、ご飯のときにお箸を使うのも全部「慣れ」による産物である。仮に、十年間お箸を使わなければきっと十年後急に箸を渡されてもうまく使えないだろう。人としゃべるのも然り、手を洗うのもお風呂で体を洗うのもまた然りとなる。

しかし実生活においての実感を考えてみる。僕たちはどうも、そのようなただ「慣れているから」出来るだけの事をさも「能力」であるように感じている。お箸を使う能力。人としゃべる能力。例にあげた行為ならまだ「慣れ」であると気づきやすいが、全てそうである。「面白いことを言う能力」「人を感動させる能力」「早く走れる能力」「英語を話せる能力」「人をまとめる能力」

天賦の才を反論点とすることはもちろん可能だろう。しかし、人が「私には早く走れる能力がない」と口にするとき、それはほぼ確実に「慣れ」不足、つまり「ただの練習不足」である。根拠はないが、どれだけ天賦の才を欠いていたとしても、必要な分だけただ単純に「慣れ」れば、自分には早く走る能力がないとのたまう必要はなくなるくらいには上達できるのではないだろうか。

僕は間近に人の死を体験したことがない。生まれたときにすでに母方の祖父母はいなかったし、父方の方は今も健在である。当然ながら「その年にもなって親族の葬式にも出たことがないのか、さっさと経験してこい」などと言ったりするのはただの暴言である。しかし、この世の中そんな雰囲気はごまんと感じられる。若造の経験不足をああだこうだいう老人とかである。

きっと我々に必要な能力は、個人が自由に出来る限りにおいて、そしてまた、人生の必要な段階において適切な量の「慣れ」をしていけるよう周囲の環境を能動的に選択していけるというものだと思う。「慣れてるかどうかだけの話じゃん!」というのが、案外いつか重要な局面で牙をむいてくる可能性がある。僕も時間と若さのあるうちに、時間と若さがないと出来ない「慣れ」をたくさんしていきたいと思う。