隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

このブログについて

●このブログって?

このブログはRoad of座代表の大橋拓真のニート生活に彩りを与えようと、同じくRoad of座の伊勢川明久の好意の提案によって始まったものである。確実に隔日で大橋がおおはしゃぎするというコンセプトで立ち上げたられたブログだが、現在は不定期更新中。

 

●Road of座って?

Road of座は、2017年1月31日、札幌某所にある定食屋で、札幌にある某有名大学に通う大橋、伊勢川、稲葉の3人が「喧嘩してもいい。公演中止だけはダメだ」の声の元、たちあげた劇団。
脚本家の極めてパーソナルな問題を、世界への皮肉としょーもないギャグでごまかしつつ客に押し付ける作風を得意とする。

 

●メール 

→ road.of.za2017@gmail.com

Twitter  

→ @Road_of_za 

●ホームページ

→   https://roadofza2017.wixsite.com/roadofza

●公式LINEスタンプ「あなあきアール君」

→  https://line.me/S/sticker/1501435

f:id:roadofza:20170725163442j:image 続きを読む

♯65 猪、猪、いい感じ!猪、猪、猪、猪いい感じ!

f:id:roadofza:20190104195030j:image

                                 ↑大橋の作

 

親戚で昼御飯を食べに行った。新年なので。祖父母は今年で87歳。今も健在で、たまに論文を発表している。貰ったのでこれから読もうと思う。

 

その会では基本的に僕の二人の姉がかしましくしてテーブルを盛り上げる。 叔母が原宿にロリータファッションで出掛けたことに対する感想が方々から厳粛に述べられていく。祖父は真面目ながら冗談が通じる人なので「君には敵わない」と舌を巻いた。僕の一番上の姉は現在無職で、しかし兵庫の山奥から何かを企み狙っているらしいが、全身をaxesで揃えることに何ら抵抗のないゴスロリ志向人間なので、「私もお母さんと一緒に原宿行こうかな」と言っている。母親は「新幹線の座席がしんどい」と簡潔な思い。真ん中の姉は「お肉がおいしい」って。

 

僕のいとこが結婚したので夫婦でこの会に出席。千葉出身、東側がついに我が家系に進出。草津に家を建てるらしい。温泉が無い方の草津立命館大学びわ湖、草津キャンパスの事をBKCと略す事に関して一笑いを狙うも時機を逸する僕。面白くないですか。

 

父親はビールを飲んでいた。毎回この会の席順を家で真剣に考えているところを知っている。ただのサラリーマンだけどすごいのだ。この前も飛行機の着陸を間近で見られるところがあるからと言って父親的穴場を教えてくれた。僕がトイレから帰ってきたらその辺の阪神タイガースの帽子をかぶったおっさんと旧知の仲みたいに喋っていた。恐るべし。母親いわく「転職しなければ社長になっていた」この帰省、またしても飛行機を乗り逃した事に関して死ぬほど怒られたが、この父親だけは裏切らず生きていきたい。

 

僕は隣のいとこの奥さんに喋りかけるも白けた。仕方がないので深刻そうに玉ねぎを食べた。就職の話が出そうになる度、腹痛を呼び起こした。この人たちががっかりする選択をする事にどれだけの大義と信念を必要とするだろう。そんな風に思ったぜ。

 

ご飯が終わって、僕と両親は阪急京都線河原町行きの特急を目指す。祖父母は宝塚線。いとこは近鉄。女性陣は梅田のバーゲンを志す。阪神百貨店の前で僕らは別れた。

 

祖父「今日は集まってくれてご苦労様でした。来年は大阪まで出てくるのが辛いので申し訳有りませんが宝塚でお願いします」

 

祖母「今日はどうもありがとう。おばあちゃんは何も聞こえなかったけど楽しかったです」

 

 

いつも終わってからバカだったなあって思わされる。

 

♯64 新年します。

大橋です。

お久しぶりでした。

隔日おおはしゃぎがいつのまにか隔週おおはしゃぎになって隔月おおはしゃぎに進化して、最終的に隔年おおはしゃぎまで視野に入ってきてしまった。ここら辺が僕が今一つな所以ですね。それかもう隔世紀でおおはしゃぐしかない。

 

(初めてRoad of座のブログに迷い混んでくださった方はトップに固定されている記事や、さらに殊勝にもウェブサイトを確認してもらってもよくってよ。僕はこのユニットを最高だと思ってますが、皆はしばしば酒の肴にしているか、興味がないと感じているそうです。)

 


2018年はRoad of座、本当に何もしなかった。

消滅していた。

大橋と伊勢川と稲葉が3人関わって作った芝居もなかった…。2019年は何かします。僕も伊勢川も稲葉も何故かまだまだ学生やってるので。

 

言い訳させてください。

僕は2018年、三個くらい記事書いたんです。でも伊勢川が更新しなかったんですよ。

たぶん彼は目的とかきっかけとか縁起とか気にして動くタイプのポケモンなので、急に謎のタイミングで更新するのが嫌だったのでしょうね。

ウーワ、手に取るように奴の思考がわかるぞ。

 

 

きっと、一年あっという間ですので物事を先送りせず生きていければと思います。もし何かやろうとしてそうな時はどうか力を貸してください。何か、出来た時はそれは絶対面白いので、お楽しみに。

 


他力本願癖を治したい。

f:id:roadofza:20190101100111p:image

♯63 日本的なものと外国の関わり方のほんの覚書

そういえば最近、やたらとこだわってしまう文言がある。「日本は~」「日本人は~」これである。良いことを言うときも悪いことを言うときも、よく文頭についている。振り返ってみれば僕も前々からよく使っていた気がするこの表現。決まり文句のように何も考えずつけている人も多い気がするこの表現。正しいのだろうか。「日本は~」あるいは「日本人は~」と言うときは比較対象が明らかにせよそうでないにせよ、どこか外国と比べているのは明白である。でも、果たしてその言葉を使う彼らは一体どれほど外国の事を知っているのだろう。

どうも僕の見たところによると、この言葉はただの自分の国を相対化して見れてますアピールに過ぎないことが多いのではないか。「日本人はけちだ」と言われるといやお金使いたくないのはどこでもそうだろと思うし、「日本人はシャイだ」と言われると、シャイをもっと厳密に定義してから言ってくれと思う。実際立ち止まって考えてみると、いやそれって本当に日本・日本人だけにあてはまることなの?と問いたくなる言説がたくさんあるように思う。物事のある面を切り出して、それを補強するような一面的なデータを盾にして中立を装うような人々の奥底にある、ただの我の強さをかぎ分ける嗅覚を覚えねばならない。

というのも、バンクーバーに来て全く違った言語肌の色文化背景の人々と接してみると、「そんな違うのか!」よりも「なんだ、一緒じゃん」と思うことの方が多いからである。こればっかりは来ないと分からなかったなと思う。鼻が高くて肌が白くて瞳が青くてほりが深い人種四、五人に囲まれて英語で話しかけられる状況を想像して、それで自分はテンパるなと思ったら、きっとまだこの事は分かってない人だと思う。さすがに僕は全く何も思わなくなった。だってあの人たち所詮は俺らと同じじゃんって気づいたから。 日本人が大半罹る外人恐怖症はやっぱり治すべきだ。

とまあそうは言っても違うところは相当違う。たとえば前、机に座って先生の話を聞いているスイス人がいたが、椅子座らんかい、と思った。あと授業中の発言の積極性も外国人はやはりすごい。受けた教育がまるで違うことを思い知らされる。日本人が日本で机に座って授業受けようとしたらほぼ確実に、椅子座らんかい、と言われるし、それ内容と関係なくね、と言い返していたら最終的に生徒指導室で威圧的なオーラを放つ体育教師数人などに囲まれるはめになる。優劣どうのよりこれが違いである。

ではバンクーバーにおいてはどうすべきなのだろうか。我々日本人も西欧人を見習って机に座って授業を受けるべきだろうか。授業中よく注意された「おしゃべり」を率先してしていくべきだろうか。多分そんなことしなくていいのではないか。だって、机に座って色々喋りながら授業を受けるのが西欧の文化なら、机に座って黙って先生の話を聞いて指示に従うのが日本の文化だから。異文化体験したいのならばすればよい。だがきっと、日本人は外国人と比べて、消極的だ引っ込み思案だシャイだみたいな劣等感から無理やり西欧の人がやってるようなことをするのは滑稽ではないか。そう思っている時点で、あなたが模倣して埋めようとしている西欧への劣等感をむしろくっきり表してしまっている。劣等感を消すための努力がむしろ劣等感の表れになるほど皮肉な話もあるまい。世の常だけど。

とはいえちょっとしゃべらなさすぎると思う。日本人。

♯62 「死線や修羅場を越えてきた」

成長とは当たり前のレベルが上がることだ、と為末大は言った。これはとても深い次元で僕にモチベーションを与えてくれる言葉となった。周りのレベルに自分がついていけないとき。周りのレベルの低さに甘んじて努力を怠るとき。成長したいと思ったときの初動について。などなど、思い起こす時は多い。試しに、高校のレベルについて考えてみる。なるほど難関とされる高校からは、やはり難関大学への進学が普通である。そしてそれよりランクの低い大学へ行くと、落ちこぼれになる。だが、それほど難関でない高校からすれば、その落ちこぼれが行った大学が大成功と見なされているのだろう。その高校からすればたいした秀才である。結果が同じなのに片方は落ちこぼれ、片方は秀才となるこの理由について考えてみると、もちろん最初に元々の地頭の良さなどと言ってしまえるわけだが。僕には前からどうもそうは思えない。僕はこの違いの理由が、「甘んじて落ち着くとまあこのレベルだよね~」という印象を流布する周囲のレベルが違ってしまったということだと思う。そして実際、そのような印象操作というか、ある意味洗脳と呼んで差し支えない周囲からの圧力が集団を同質のレベルにしてしまっていると思う。

ところで、自分の経験に説得力を持たす言葉として、こんなものがある。

「今までどんだけ修羅場をくぐり抜けて来たと思ってるんだよ」

理解に難くはないがあえて分かりやすく言い直すと、

「今回の苦難よりももっと大変な状況を経験してきて、そのレベルに僕は慣れている。だから僕にとっては、今回のレベルはそんなに深刻なレベルじゃない。簡単だ」

ということになるだろう。「慣れ」というのは人間の能力の中でかなり重要なものである。小さいときに歩くことを覚えてから今まで歩けているのも「慣れ」言葉をしゃべっているのも「慣れ」手を洗うのも、お風呂で体を洗うのも、ご飯のときにお箸を使うのも全部「慣れ」による産物である。仮に、十年間お箸を使わなければきっと十年後急に箸を渡されてもうまく使えないだろう。人としゃべるのも然り、手を洗うのもお風呂で体を洗うのもまた然りとなる。

しかし実生活においての実感を考えてみる。僕たちはどうも、そのようなただ「慣れているから」出来るだけの事をさも「能力」であるように感じている。お箸を使う能力。人としゃべる能力。例にあげた行為ならまだ「慣れ」であると気づきやすいが、全てそうである。「面白いことを言う能力」「人を感動させる能力」「早く走れる能力」「英語を話せる能力」「人をまとめる能力」

天賦の才を反論点とすることはもちろん可能だろう。しかし、人が「私には早く走れる能力がない」と口にするとき、それはほぼ確実に「慣れ」不足、つまり「ただの練習不足」である。根拠はないが、どれだけ天賦の才を欠いていたとしても、必要な分だけただ単純に「慣れ」れば、自分には早く走る能力がないとのたまう必要はなくなるくらいには上達できるのではないだろうか。

僕は間近に人の死を体験したことがない。生まれたときにすでに母方の祖父母はいなかったし、父方の方は今も健在である。当然ながら「その年にもなって親族の葬式にも出たことがないのか、さっさと経験してこい」などと言ったりするのはただの暴言である。しかし、この世の中そんな雰囲気はごまんと感じられる。若造の経験不足をああだこうだいう老人とかである。

きっと我々に必要な能力は、個人が自由に出来る限りにおいて、そしてまた、人生の必要な段階において適切な量の「慣れ」をしていけるよう周囲の環境を能動的に選択していけるというものだと思う。「慣れてるかどうかだけの話じゃん!」というのが、案外いつか重要な局面で牙をむいてくる可能性がある。僕も時間と若さのあるうちに、時間と若さがないと出来ない「慣れ」をたくさんしていきたいと思う。

♯61 Road of座の2017年

これでキミもRoad of座のこと団員よりまるわかり!
Road of座2017年表!

2017年1月31日
札幌市某定食屋にて結成さる
3月21日
旗揚げ公演「みぐるみ」上演さる
4月6日
代表札幌から消滅
6月4日
ロゴ出現
6月16日
隔日おおはしゃぎ出現
7月9日
舞台アクションWS始まる
7月16日
舞台アクションWS開催
7月23日
舞台アクションWS開催
7月24日
Road of座スタンプ発売開始
7月29日
ブログにきたはらのかたはらいたし出現
7月30日
舞台アクションWS開催
7月31日
ブログにこいバナはるき出現
8月14日
ブログにみちづれ出現
8月29日
第二回公演「そいつのまわりをぼくたちは」上演さる
9月12日
代表セブ入り
10月14日
代表バンクーバー入り
10月15日
舞台アクションWS開催
10月22日
舞台アクションWS開催
10月29日
舞台アクションWS開催


早いもので、あと数時間で2018年。一月の旗揚げから第一回公演、ブログ、スタンプ、ワークショップ、第二回公演と、ノロノロしてたりやってみたり微妙だったり。思い通りに進まないこともありましたが、何とか解散せず、公演中止せず新年を迎えられそうです。それもひとえに協力してくださった方、見に来てくださった方々全員のおかげです。ありがとうございました。


2017年はRoad of座にとってはきっと忘れられない一年になると思います。なんてったって出来たわけだからね! 札幌に劇団出来まくりの昨今で、まさに『何その劇団』急先鋒を務めまくったRoad of座だったかもしれませんが、そんなもんです。一つ言えるのは、何かしたい、出来るかもしれないという思いがちゃんと小さな一歩として始められたということです。どこぞで煮詰まってるより良かった、と、思います。
来年は僕と伊勢川が三年生、稲葉は四年生と(同期だったのに不思議だね)そろそろ各々の進路等も考えながら過ごしていかねばなりません。でもきっとこの2017年の経験とその時間が、これからもっとよいお芝居を作る経験と時間になり、いいものを作っていけると思うのでどうぞお楽しみに!
来年もこのRoad of座をよろしくお願い致します。

それでは…、



よいお年を~~!

♯60 Road of座よりメルルィイイクルィイィスマァ

HO-HO-HO

よい子の諸君、サンタからプレゼントはもらえたかなー?
まだだという子は急いで日付変更線を目指そう!

クリスマスってのは何故か「勝ち」と「負け」が生まれる不思議なイベントなのさ。しかしこの場合「勝った」と意識してしまってるやつは既に負けてしまっている。理由は分からないけどね。じゃあ真の勝者ってのはどこにいるのかというと、それは「勝った」とも思っていないごく普通の顔してるやつさ。皮肉なもんだね。手近にそんなやつがいたら「強がんなよベイベ」と言ってみてから反応を観察しよう。キョトンとされたらキミの完全敗北。少しこわばったらそれは同志だから優しく手を握ってあげよう。ついでにキス。
残念だけれど、「負けた」と思ってるやつは本当に負けてるから心配しなくていいよ。そこにひねりとかはないから。


ここで一句

ゆき違い
積もらぬ白が
融ける服


「merry」というのは「幸せな、楽しい」という意味だから、「merry christmas」というのは「幸せなクリスマスを!」という意味になる。だからこれって本来はクリスマス当日には使わない表現なんだね。年越してからよいお年をって言わないのと一緒だね。関係ないか。厳密な意味よりも伝わるかどうかが大切だ。さしずめ伝わるかどうかというのは周囲の環境、厳密な意味は正統な血統。生物がどちらに従って生きるかは自明のじの字も待つまでもない。


さあそんなあなたは2017年のクリスマスというもう二度と来ない一日をどう過ごすのでしょうか。恋人と、気になるあの人と、友達と、家族と、パブで偶然出会った隣の人と、あるいは一人で。どんな一日でも朝が来て昼が来て夜が来る。こんこんと降る雪もうっとうしい雨も、全然真上に来てくれない太陽も、あなただけに来るわけじゃない。谷デカければ山またデカし。byぼく


メリークリスマス。メリークリスマス。