隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

このブログについて

●このブログって?

このブログはRoad of座代表の大橋拓真のニート生活に彩りを与えようと、同じくRoad of座の伊勢川明久の好意の提案によって始まったものである。確実に隔日で大橋がおおはしゃぎするというコンセプトで立ち上げたられたブログだが、現在は大橋が月水金を、火曜を稲葉が、日曜を北原が担当している。

 

●Road of座って?

Road of座は、2017年1月31日、札幌某所にある定食屋で、札幌にある某有名大学に通う大橋、伊勢川、稲葉の3人が「喧嘩してもいい。公演中止だけはダメだ」の声の元、たちあげた劇団。
脚本家の極めてパーソナルな問題を、世界への皮肉としょーもないギャグでごまかしつつ客に押し付ける作風を得意とする。

 

●メール 

→ road.of.za2017@gmail.com

Twitter  

→ @Road_of_za 

●ホームページ

→   https://roadofza2017.wixsite.com/roadofza

●公式LINEスタンプ「あなあきアール君」

→  https://line.me/S/sticker/1501435

f:id:roadofza:20170725163442j:image 続きを読む

♯55 愛せよガラクタ

実家の押し入れの一番下の段。中学くらいから触ってもいないそこには大量のトレーディングカードゲームが眠っている。遊戯王とデュエマ。どんなカードも戦略次第な遊戯王に比べてデュエマはもうどうしようもないカードがたくさんある。とにかく光るカードを求めて一パック155円くらいを買い続けた軌跡である。今となっては再挑戦しようとも思わないけれど、むかし見てワクワクしたカードは今見てもワクワクするから楽しい。

無我夢中でカードを集める私に姉はよく言った。

どうせあとでゴミになんのに

かくいう彼女も行く先々のレストランの割り箸を集めるという奇行を展開していたのだが、当時の私には合理性で姉に敵うことは無かったため意固地に集め続ける他なかった。あるいは、「勝つには必要やねんもん」であった。何か幼稚な反論だなあと唇を噛んだ記憶である。

だがしかし、それって幼稚なんだろうか。今の自分を満たしてくれるものにお金を払うことは浪費なんだろうか。今しかないとどこかの林先生が言っていたけれど、それとこれとは違う話なんだろうか。必要なものだけが必要なんだろうか。だったらエンターテインメントはどこへゆくのだろうか。

太く短く生きる、と、細く長く生きる、という例えがあってこう聞くと結構答えが割れる。未来の自分と今の自分。苦労を先延ばしにするのは違うけれど、未来の自分をかわいがるように私は今の自分もかわいがりたい。嗜好品がQOLをあげるし、贅沢が時に心を豊かにもする。だんごが腹を満たして花が心を満たす。粋が分かる人でありたい。

♯54 瞬間という魅力

眠る瞬間を感じたい。日の出の瞬間が見たい。南中の瞬間も見たいし、日が赤くなる瞬間も見たい。そして太陽が水平線に沈んでいく瞬間。

賢くなる瞬間を感じたい。記憶した瞬間を感じたい。背が高くなる瞬間を感じたいし、体重が増えた瞬間。視力が0.1悪くなる瞬間。耳が遠くなる瞬間。髪の毛が長くなる瞬間。音階が上がった瞬間。何かに慣れた瞬間。何かが変わった瞬間。成長した瞬間と劣化した瞬間。

瞬間は瞬く間と書く。人は瞬きより早いものを認識できない。確かに目の前で起こっているはずのことなのにそのリアルを感覚で感じることが出来ない。

目には分解能という限界がある。人はあまりに微少な距離は認識できない。確かに動かしたという実感と、認識できないその距離の不協和が明日の景色を曇らせる。

要するにそれが原因だ。人は絶対的には変化しているはずものを変化していると認識できない。機械にここまで信頼を置くこの時代なのに。興味深い錯覚を体験しては感覚器官の不完全さを学んでいる我々なのに。

だからその変化をつかむには「瞬く間」が積もった十分な時間が必要だ。我々の分解能が認識できる距離を生み出すような大雑把で無粋な時間の束が。瞬間というロマンと人のエゴで要請される暴力的な時の束。

今日は久々の人と会うことになる。瞬きより早くて分解能より小さな僕の変化をあなたに捧げる。気づいてね、ぜひぜひ。

♯53 今日はおしばい

今日は記念すべき海外初舞台出演ということで朝からむずかゆい期待にとらわれております。小さくてもこれが僕の初めてで、それが終わったら今日はもうおしまい。一人でなんでもしていい舞台は好き。他人を信じる必要がないから。自分の気持ちさえ持っていくことが出来ればうまくいく。それも難しいんだけど、不確定要素が少ないのはうれしいね。

ただいつもと勝手が違うのは全部英語なところだね。しゃべる言葉全部英語でやらなきゃいけない。とても難しそうだ。KILL BILってあったよね。「ドウヤラ、ウワサガヒトリアルキシテルミタイダネ!」「マダオワッチャイナイヨ!」たぶんネイティブからするとあんな感じに見えるんだろうな。あれはあれでシュールで面白かったけれど、未知の感想を抱かれる可能性というのは怖い。まあ本当に小さな寸劇だから緊張もへったくれもあるまい。演技良かったねとかうまかったよりも前に声大きかったねというreviewをいただけるよう思い切りよくやろう。前にネプチューンのホリケンが他の芸人へのアドバイスで思いきりよくね!といってたことがやけに印象深い。あの人も本当にその言葉一本で芸能界を渡り歩いてそうだもんね。

役はというと、欠席の生徒の安否を忙しくて確かめなかったらその生徒が誘拐されて殺されていて、それを後悔しているというやつ。ひねりはたぶんいらない。そうじゃなくてもドン引きされそうなのに。全くどうなるんだろう。ていうかクラスメイトの僕に対するフェイマスアクターの誤解を早く解きたい。完全に誤解されとる。誤解されたまま真実になんねーかな。

最近ネットフリックスばっかり見ているところを利用してアドリブぶちこんでこう。気がかりは共演者と意思疏通が出来ていないことだけどもう気にしない。

あーあ。バンクーバーに来てまで今日はもうおしばい。

♯52 ある風景

この一年は本当に奇妙であったとつくづく思う。何をしたかと問われると、何もしていなかったのかもしれない。もといた場所に一年をかけて戻ることに盛大に労力を使っているという表現が最適である。

先日は我がホストマザーの記念すべき誕生日であった。彼女は子どもをたくさん持っていた。が皆それぞれの家庭へ巣出っていっている。そういえば夫を見たことがないな。怖くて聞けないけれど。彼女の長い歴史にはきっと色んな誕生日の記憶があるのだろう。愛する人と過ごしたロマンチックな日もあっただろうし、子どもが家中走り回ってろくに浸れなかったこともあったろう。人はみな、年を取るごとに否応なしに時の厚みを増していって、かけがえのないその人だけの人生を形成する。僕はそんな深遠な営みを尊崇し、かくも厳かな神域があるのだと痛感するのである。そして今、その領域に属するどこの誰だか分かったもんじゃない日本人の僕と、ベトナム人と韓国人の面々。なんとも興味深い因果であるかな。

食卓は思いの外いろいろな話題で盛り上がっていた。彼女のスマートフォンからはジョンレノンが流れていた。イマジン。遠くの居間ではつきっぱなしのテレビがニュースを伝えている。北の方で雪が降ったらしい。いつもより豪華な夕食に無言で食べ続けるキャロライン。ユーチューブの自動再生で曲が変わる。ビリージョエル。ピアノマン。水を取ってというオリビアの声に僕とホストマザーのヴィーダが反応して、結局僕が取る。

おい若いの、あの思い出の一曲を弾いてくれないか。もうどんなんだったか覚えてもないんだけど。でもなんだか悲しくて、甘いやつなんだよ。若いときは全部歌えたんだがな。

何気なく、この曲弾けるんですよって言ってみた。反応のよい一同。フォークが皿に当たる音。椅子の軋み。さっきより強くなった風の音。こんな良い日が日本にあるものかと勝手に日本へ責任転嫁してみる。

弾いてみてよ

ヴィーダがそう言う。ピアノならうちの子どもが小さいときに弾いてたやつがあるからと。もののはずみで言うんじゃなかったと後悔する。前は謙虚に振る舞いつつその実は自分をひけらかしていた僕だが、ここではなんだかそんなことはしたくない。ここではこの荘厳な空間を自らという物からさえ脱皮して浸っていたい。ありていに言って僕はもう例え数人の前にでも出ることが嫌になっていた。目立たないように集団に没入し、暗がりでどうでもいいことを永遠に考えていたくなっていた。

だがほこりまみれのピアノは既にテレビの下から引っ張り出され、みんな電源がついたと喜んでいる。空気は読まなければならない。どこからともなくやってくる椅子。座って白と黒の鍵盤を凝視する。思えばピアノは僕にとって自己満足の象徴だったように思う。大して腕もないのにな。ピアノは小さくておそらく一緒に出る音の数も限られている種類であろう。本番前の、逃げられないぞという時に感じるあの全身のピリピリ感が全身を電流のように走り抜ける。この電流は顔を熱くして末端を冷たくするくせ者で、また謎のシステムによって尿意さえも促進するやつだ。

しかし、僕は実はそれが好きだった。コレだよ、コレコレ。コレがないと。全く何も展望がないときでさえ不思議と僕は本番前はワクワクが止まらない人種であった。そして今回もそれだった。ニヤニヤしながら弾き始めた。

弾いてるときは無我夢中でなんなら歌っていた。気がつくとみんなこっちを見てて、温かな拍手が生まれる。すごいよ。とか。隠してたのね。とか。ブラボー。とか。ちっぽけな誕生日会の、数人の拍手と称賛の言葉を浴びる。ちっぽけなのに、僕が生まれてからずっと求めていているものは本当に、ただ一つ、これだった。振り返ってみると、僕はいつも全くブレないでこれだけが欲しかったんだ。もしこれがないなら。これを対価として得られないのであれば。僕はアマゾンにでもサハラ砂漠にでもレイキャビクにでも行ってのびのびと生きる。これ以上、見たくない顔面と駆け引きする必要もない。運良く英語もしゃべれるようになるのだし。

ってそんで、お誕生日おめでとうってその中で言ってみたらカッコつけすぎて照れたっていう話。

♯51 The U.B.C hitchhiker

これは、僕の友達のいとこの隣人の愛人が言ってたことならしいんだけどね。昔バンクーバーヒッチハイクしようとした女の人がいたんだって。行き先はU.B.C。ブリティッシュコロンビア大学だね。その日は雨で、その人はずぶ濡れになりながら車を止めようとしていた。ある親切な人が途中までは送ってくれたりして、あと少しだったらしいんだけどそれからが捕まらない。どの車も過ぎ去っていくばかり。

で、そんな中ある人がその女性の前で車を止めた。乗せてくれたんだね。女の人はお礼をいいながら車に乗り込んだ。でもそれは悪い人の車だったんだ。ドライバーはその女の人を殺して見つからなそうな道に捨てた。警察も家族も彼女を探すが見つからない。彼女は今亡霊となってバンクーバーをさまよっているらしい。

この亡霊と言うのが今もバンクーバーの市街地でヒッチハイクをやってるらしい。言い伝えとしては、絶対にこの女性の前で車を止めてはいけないらしいよ。殺されるんだって。簡単な避け方だね。でも恐ろしいことにこの女性はバスにも乗ってくるらしい。この女性と言うのはドライバーにしか見えないらしくて、もしあなたが乗ってるバスが誰もいない誰も降りないバス停で止まってドアを開けていたら、ドライバーにしか見えないその女性が乗り込んできてドライバーや乗客を殺すらしい。

恐いね。恨みを晴らすならその殺した人にだけ行ってほしいよね。完全に八つ当たりじゃんか。第一傘を持ってなかったのも悪いし、買えば良かったのに。ていうかヒッチハイクというのが、もう。Uberでタクシー呼べよ。僕も今年中に用賀にでも行って大阪までヒッチハイクでもしようかと思ったこともあったけど。バイクがどうしてもあったからね。バイクを置いてヒッチハイクしちゃったらまた取りに来るときにヒッチハイクしてこなきゃいけない。いや、そこは他の交通手段があるな。とにかく、僕が言いたいことは、世間知らずであることと勇敢であることを区別できない幼稚さは、命を奪うゾってことだね。外国に来て気づいたよ。これまでの僕は勇敢だったことなんてない。ただ、何も知らなかっただけなんだって。勇敢なものは恐怖したことを否定しない。コレだね。

だから気を付けてね。

♯50 敗北のワームホーム

過ぎた日を偲べば、愚かなことばかりやってきた。人の目も気にしたし、体裁だけを守ろうとした。なりたい自分になろうと思って、柄にもないことを言ったりもした。だけど変わったのはうわべだけ。僕の全ての選択を司るこの核的なところは十代を終えてすっかり固まった。意地汚い心から未完成な邪悪さまで、隅から隅の僕の中の有象無象がそのままの形で凝固した。まるで作った紙粘土の駄作が改良を渋る間に微動だに出来なくなったように。まるでやって来た冷風が瞬時に世界の全てを凍てつかせてしまったように。僕の心はがんじからめになった。そんな類いの絶望こそが僕の動きを封じていることに気がつきながらも、頭をもたげる思考は続く。

幸せとは一体何であるのかとか、そんな偉そうな難問に輾転反側する夜もあった。馬鹿にされ、もっともな批判にさらされ時に分別なき非難にもあった。惨敗を恐れ捨て台詞ばかりが磨き上がった。今すぐ出向いて殴打したい顔面ばかりが浮かんでは罵詈雑言を吐く。敗北がかくも全身から気力を奪ってゆくとは思わなかった。惨めにさらされ、流言飛語に行ったり来たりして、中立を装う糞連中の薄ら笑いが夜を憂鬱にした。諸君、負けてよいと思った敗北は敗北ではない。勝たねば明日が見えない局面こそが真の敗北の出る幕となる。敗北とはすなわち圧倒的敗北。そして僕は負けた。

空の青さが気に入らなかった。弱れば手が差しのべられるなんていうのは争いにおいては虚言だ。目は口より物を言う。百の暴言より一瞥が心を切り裂くことがあるのだ。バラバラになった心はどう癒せばよいのだろう。今もフラッシュバックして業煮やす。一試合10個以上のエラーと全ての打席を三振。ついに交代しベンチに下がったときの安堵。僕が本当にやりたかった野球はこれじゃない。負けるくらいなら勝つために努力するなんて根性はない。ならば初めから勝負なんてしない。勝てるまで舞台を変え続けて変え続けて。自分はついに変えれないことに気づかされる。

やがて来るほろ苦い終末までの旅路は時空を越えて、姿を変えて道具を変えて声を変えて態度を変えて、必ずやって来る。死がこの下らぬいたちごっこを止めるまで。

誰か分かるかなあ。分からないだろうなあ。白球を追いかける頭でっかちな少年よ。