隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

このブログについて

●このブログって?

このブログはRoad of座代表の大橋拓真のニート生活に彩りを与えようと、同じくRoad of座の伊勢川明久の好意の提案によって始まったものである。確実に隔日で大橋がおおはしゃぎするというコンセプトで立ち上げたられたブログだが、現在は不定期更新中。

 

●Road of座って?

Road of座は、2017年1月31日、札幌某所にある定食屋で、札幌にある某有名大学に通う大橋、伊勢川、稲葉の3人が「喧嘩してもいい。公演中止だけはダメだ」の声の元、たちあげた劇団。
脚本家の極めてパーソナルな問題を、世界への皮肉としょーもないギャグでごまかしつつ客に押し付ける作風を得意とする。

 

●メール 

→ road.of.za2017@gmail.com

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●ホームページ

→   https://roadofza2017.wixsite.com/roadofza

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♯67 全国大会の感想的な

この度、大橋は劇団しろちゃんとして全国学生演劇祭に出場してきました。楽しかった。昨年5月からずっと稽古してきた芝居を満を持し最高の舞台で披露できたことも最強にワクワクしたし、京都という場所に北大のメンバーで訪れられたという事実も個人的に胸に響いた。格別京都に思い入れが強いというわけでも無いのだけど。地元を離れ北大に入学してからしばらくは、「俺の精神はここにはない。俺のことを本当に分かってくれているのは地元の人々であり、札幌には現状を競い合う冷酷な敵しかいない」みたいなメンタルだった。大学のこれまでの4年間でその仲間たちに心を開いて、そして遂に地元に皆が来るっていうのは、なんか、最終回感があって良かった。3月でしろちゃんも卒団するし、本当に最終回ではあったんだけど。てか、そういやいつの間に心を開いていたんだ。


思い出に強烈に残りそうなイベントが死ぬほど立て込んでいた一週間だったけど、他のブロックの団体を観劇したことと、終演後審査員の三人の方としっかりとお話しできたことが印象深い。ちゃんとした視線で書けるか自信はないが、今回は他の団体を観させていただいた感想を書いてみようと思う。とりあえず最初はBブロックを。他にも色々あったことを書き残しておきたいが、特に需要も無いかと思うので割愛で。しろちゃんの出てるAブロックのfooorkさんとstereotypeさんだけ観れなかったことがとても悔やまれる。

 


Bブロック 楽一楽座「LIVED」

今回、大賞と審査員賞を受賞した作品。おめでとうございます。僕はゲネを観させていただきました。テーマは、自分を取り戻せ!というものだと理解。中二病や母親からの学歴コンプレックスを煽るような言葉、そして受験の失敗。失恋と、そのような出来事からくる自己喪失。優しくしてくれたゲイのママにもあんたは私たちと違うと言われる。最後は自分の中にある解放への衝動と対話し、薬物に頼らず安眠できる日を待ち望む、という筋だと理解。
針金で出来た人形たちのセットと、後ろのDJブースみたいなところにいる被り物に黒マスクを付けた謎の存在が、最初から異様でワクワクした。後半、後ろにいる存在が、主人公の心の中にいるおんがくんだと気付いたり、メトロノームが心音を表していたことに気付いたとき、ハッとさせられた。
ただ、せっかくあれだけの人形を徳島から持ってきて、さらに光らせるという事までするのであれば、話しかける以上にもっと色々な絡み方をしてみても良いのではないかなと思った。抱きつくとか、持ち上げるとか、人形の手を動かして喧嘩してるみたいな自演ぽさを出すとか。ただの僕の趣味の話だけど。
ストーリーの筋は、なんか教育に良いなって思った。嫌なこと→落ち込む→嫌なこと→落ち込む→治したくて頑張る、っていう流れが、優等生みたいだなって思ってしまった。あと中二病こじらせたりとか、好きだった女の子が腹黒で裏切られることとか、受験に失敗することとかって、別に田中真面目くんにだけ当てはまることではないと思う。僕も少なからずそういう思い出がある。そういう、言ってしまえばありふれた経験をしている主人公が、全くあり触れてない薬物とか、ゲイのママと暮らすっていうところに繋がっていくところがどうも腑に落ちなかった。ありふれていることをさも一大事のように騒ぎ立てると、わりと他人からは滑稽に見えると思うので、そこも、滑稽な話で終わらせるのか(それなら薬物とかは出さない方が…)、他人から見たら滑稽でも本人的には生きるか死ぬか、絶望か希望かみたいな深刻な内面の話をしていくのかどっちかに統一してみてても良かった気がした。

 

Bブロック ゆり子。「あ。東京」

今回、観客賞を受賞した作品。おめでとうございました。反抗か順応かという話だったと理解。東京、というゴジラみたいな物理的にヤバい奴が日本を襲撃している中、京都で生きる家族の顛末が描かれる。父親が死んでから東京にかぶれておかしくなった母親を、嫌いになりきれずも辟易としながら、京都府警に勤める彼氏を心の支えにして生きている女の子。しかし彼氏と母親の浮気が発覚、母親を殺して食べて、彼氏とも、お互いの指を食べ合う。そしてずっと望んでいた「一つになる」という理想を自分なりの形で提示出来た。が、東京が京都を襲撃し、ついに彼氏ともバラバラになってしまった、みたいなオチ。
めちゃ好きだった。東京、というゴジラみたいな奴が、マジョリティ、メインストリーム、正解、思考停止、没個性、死、など色々なメタファーを背負った存在として具体的に出てきたところが個人的な趣味として好きだった。殺した母親を食べたり、彼氏と指を食べ合う、みたいな行為をただのメンヘラの作品に良くありがちな展開でしょ、と考えるのは分析不足だと思った。あれは、メンヘラの思考というよりも、正当性から逸脱した愛の表現の仕方の象徴的な話であって、人を食べる事自体重要ではない。一般社会では異常とされるが、しかし思考停止に陥らず、自分達なりの愛の形を追求した結果である。それは暗に、用意された観光地や、大企業によって生産される愛の表現で満足している思考停止の群衆を批判している。その文脈で、この話はそういう大衆、抑圧の構造(東京)に順応して個性の死を受け入れるか、異常であることによって、その勢力に反逆するかという話だと考えた。
後ろに積み上げられるブロックみたいなやつは、最初は無秩序、無造作に思われたが、東京がそれらを破壊しきれいに並べかえて行っていたところから、この解釈はきっと作者の意図を汲み取れているのではないかなと少し自信がある(わかんないけど)。あの最初に積み上げられていたブロックたちは、均一化されていない無規則、だけれども自由である人々のあり方を示しており、それは同時に1000年の都である京都の街並みをも表現していた思う。京都は、京都学派から始まり、明治維新以降つねに東京と対置される存在であった。東大と京大の学生、学風の比べ方でよくみんながしがちな対比関係もそこから端を発しているのだろう。そのような前提もこの作品からは感じられたように思う。登場人物たちが、大多数に飲み込まれず思考停止せず生きていくことに命を懸けていたストーリー(結局飲み込まれたけれど)のメッセージが、まるまんまこの作品の作者の京都で芝居を続けていってやるみたいな、決意表明に思えてきたのも、何だか胸アツである。
字幕も、不要だったとよく言われているけど、僕はああいう字幕好きだから気にならなかった。あと母親食べるところでトマトを食べていたのが良かった。赤いもの食べてるだけでも結構ウッてなったけど、何よりも衝撃的だったのは、客席にトマトの瓜臭い匂いが届いてきたことだった。打ち上げで聞いたら狙ってなかったと仰っていたが、あれは個人的に全く新しい体験だった。嗅覚!観客の嗅覚に訴えてきやがった!みたいな。嗅覚を使った演出ってみんなどれくらいやっているものなのだろう。少なくとも僕の少ない劇体験の中では初だった。あの瓜臭さのおかげで、人を食べているというシーンがとても妙にリアルで、エグく、緊迫したものとして伝わってきたように思う。良かった。


長くなってしまった。Bブロックは二作品だが両方とも考えたり分析し始めるときりがない作品で興味深かった。お疲れ様でした! 時間が出来たらCブロックの感想もまた書きます。

 

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♯66 仁義好かんなら筋の歯ごたえ

やっぱ恩には恩だなあと思う。仇には仇。既に施された大恩を返すのに人生を懸けて臨まねばと思う。ただ恩の返し方。例えばお金を払えばいいものでもなし。返せない恩の正体とは結局こんな自分に割いてくれた時間の価値か。忘れちゃいけないと思う。反対に今僕の前に立っているこの人は僕の時間をどれほど尊重してくれているのか考える。システムに判断を委ねぬよう。自分の価値は自分で考えられるよう。便宜的な換算で盲目になってしまわないように。

 

時間の恩はもう返せないわけだから、返し方は工夫しなければならない。その人に誠意を込めて何かをしてあげたりする。自分の誠意を無価値だなんて思わぬよう。誠意は大切だ。それだけで一生衣食住に困らないで生きていけると信じている。でもそれでも返せないなら自分に時間を割いてくれたように、僕もまた他の人に時間を割けばいい。そうすればきっと許される。言うなれば贖罪だ。

 

思えば仁義を意識し始めたのは中学生の時だった。僕はいかにして僕であると言い続けられるのかが分からなかった。尾崎かよ。家族に接する無口な自分と、友達とふざけて下劣な事に手を染める自分。ピアノを習っていたおばあちゃんの先生には何故か優等生のような接し方をした。外面でかしこぶって腹で打算的なことを滔々と練っていた自分。何をしても結局自分は自分だと今にしては随分青臭いことを考えていたなあと思うけど、その時は問題だった。死ぬべきとさえ考えた。アイデンティティーだ。そこで仁義だよ。恩には恩、仇には仇。なんて簡単な理屈なんだ。強い筋を一本そこで通すことができる。仁義がないなら筋は通らぬ。人間性の真理を発見した気がして嬉しかった。それが深く長いただの頑固者の誕生だった事には気づけず。

 

仁義仁義言ってる人はきっと不安なんだろうと思う。無償で誰かが自分を助けてくれると思えないから、そういう契約を好むのだ。誰かを助けたのに、助けてくれなかったらちゃんと恨めるもの。だから仁義という言葉の中の自己満足を発見できればきっとその言葉との付き合い方も分かる。うだうだ言っても、助けたから助けられる、助けられたから助けるの理屈は最強だから。筋が通る。ほどよい噛みごたえの筋が通る。仁義を好まないんだったら、そいつは、ふにゃふにゃで、食べたか食べてないかも思い出してもらえないような人間だ。そんな事になってしまうのはちょっと困る。

 


今日もしっかり世界を見る! 悲しいくらい主観的な視覚で見る! 主観的だけど、かならず自分の脳みそで考える! こんな僕に、一体誰が手を差し伸べてくれているか。一体誰が僕を軽んじているか。しっかりと見るのだ。どんな一瞥も忘れちゃいけない。恩には恩、仇には仇。仁義だ。これまで恩をもらった全ての人たちのために生きなければいけない。そして筋の通った人間になりたい。信頼されたい。

 

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♯65 猪、猪、いい感じ!猪、猪、猪、猪いい感じ!

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                                 ↑大橋の作

 

親戚で昼御飯を食べに行った。新年なので。祖父母は今年で87歳。今も健在で、たまに論文を発表している。貰ったのでこれから読もうと思う。

 

その会では基本的に僕の二人の姉がかしましくしてテーブルを盛り上げる。 叔母が原宿にロリータファッションで出掛けたことに対する感想が方々から厳粛に述べられていく。祖父は真面目ながら冗談が通じる人なので「君には敵わない」と舌を巻いた。僕の一番上の姉は現在無職で、しかし兵庫の山奥から何かを企み狙っているらしいが、全身をaxesで揃えることに何ら抵抗のないゴスロリ志向人間なので、「私もお母さんと一緒に原宿行こうかな」と言っている。母親は「新幹線の座席がしんどい」と簡潔な思い。真ん中の姉は「お肉がおいしい」って。

 

僕のいとこが結婚したので夫婦でこの会に出席。千葉出身、東側がついに我が家系に進出。草津に家を建てるらしい。温泉が無い方の草津立命館大学びわ湖、草津キャンパスの事をBKCと略す事に関して一笑いを狙うも時機を逸する僕。面白くないですか。

 

父親はビールを飲んでいた。毎回この会の席順を家で真剣に考えているところを知っている。ただのサラリーマンだけどすごいのだ。この前も飛行機の着陸を間近で見られるところがあるからと言って父親的穴場を教えてくれた。僕がトイレから帰ってきたらその辺の阪神タイガースの帽子をかぶったおっさんと旧知の仲みたいに喋っていた。恐るべし。母親いわく「転職しなければ社長になっていた」この帰省、またしても飛行機を乗り逃した事に関して死ぬほど怒られたが、この父親だけは裏切らず生きていきたい。

 

僕は隣のいとこの奥さんに喋りかけるも白けた。仕方がないので深刻そうに玉ねぎを食べた。就職の話が出そうになる度、腹痛を呼び起こした。この人たちががっかりする選択をする事にどれだけの大義と信念を必要とするだろう。そんな風に思ったぜ。

 

ご飯が終わって、僕と両親は阪急京都線河原町行きの特急を目指す。祖父母は宝塚線。いとこは近鉄。女性陣は梅田のバーゲンを志す。阪神百貨店の前で僕らは別れた。

 

祖父「今日は集まってくれてご苦労様でした。来年は大阪まで出てくるのが辛いので申し訳有りませんが宝塚でお願いします」

 

祖母「今日はどうもありがとう。おばあちゃんは何も聞こえなかったけど楽しかったです」

 

 

いつも終わってからバカだったなあって思わされる。

 

♯64 新年します。

大橋です。

お久しぶりでした。

隔日おおはしゃぎがいつのまにか隔週おおはしゃぎになって隔月おおはしゃぎに進化して、最終的に隔年おおはしゃぎまで視野に入ってきてしまった。ここら辺が僕が今一つな所以ですね。それかもう隔世紀でおおはしゃぐしかない。

 

(初めてRoad of座のブログに迷い混んでくださった方はトップに固定されている記事や、さらに殊勝にもウェブサイトを確認してもらってもよくってよ。僕はこのユニットを最高だと思ってますが、皆はしばしば酒の肴にしているか、興味がないと感じているそうです。)

 


2018年はRoad of座、本当に何もしなかった。

消滅していた。

大橋と伊勢川と稲葉が3人関わって作った芝居もなかった…。2019年は何かします。僕も伊勢川も稲葉も何故かまだまだ学生やってるので。

 

言い訳させてください。

僕は2018年、三個くらい記事書いたんです。でも伊勢川が更新しなかったんですよ。

たぶん彼は目的とかきっかけとか縁起とか気にして動くタイプのポケモンなので、急に謎のタイミングで更新するのが嫌だったのでしょうね。

ウーワ、手に取るように奴の思考がわかるぞ。

 

 

きっと、一年あっという間ですので物事を先送りせず生きていければと思います。もし何かやろうとしてそうな時はどうか力を貸してください。何か、出来た時はそれは絶対面白いので、お楽しみに。

 


他力本願癖を治したい。

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♯63 日本的なものと外国の関わり方のほんの覚書

そういえば最近、やたらとこだわってしまう文言がある。「日本は~」「日本人は~」これである。良いことを言うときも悪いことを言うときも、よく文頭についている。振り返ってみれば僕も前々からよく使っていた気がするこの表現。決まり文句のように何も考えずつけている人も多い気がするこの表現。正しいのだろうか。「日本は~」あるいは「日本人は~」と言うときは比較対象が明らかにせよそうでないにせよ、どこか外国と比べているのは明白である。でも、果たしてその言葉を使う彼らは一体どれほど外国の事を知っているのだろう。

どうも僕の見たところによると、この言葉はただの自分の国を相対化して見れてますアピールに過ぎないことが多いのではないか。「日本人はけちだ」と言われるといやお金使いたくないのはどこでもそうだろと思うし、「日本人はシャイだ」と言われると、シャイをもっと厳密に定義してから言ってくれと思う。実際立ち止まって考えてみると、いやそれって本当に日本・日本人だけにあてはまることなの?と問いたくなる言説がたくさんあるように思う。物事のある面を切り出して、それを補強するような一面的なデータを盾にして中立を装うような人々の奥底にある、ただの我の強さをかぎ分ける嗅覚を覚えねばならない。

というのも、バンクーバーに来て全く違った言語肌の色文化背景の人々と接してみると、「そんな違うのか!」よりも「なんだ、一緒じゃん」と思うことの方が多いからである。こればっかりは来ないと分からなかったなと思う。鼻が高くて肌が白くて瞳が青くてほりが深い人種四、五人に囲まれて英語で話しかけられる状況を想像して、それで自分はテンパるなと思ったら、きっとまだこの事は分かってない人だと思う。さすがに僕は全く何も思わなくなった。だってあの人たち所詮は俺らと同じじゃんって気づいたから。 日本人が大半罹る外人恐怖症はやっぱり治すべきだ。

とまあそうは言っても違うところは相当違う。たとえば前、机に座って先生の話を聞いているスイス人がいたが、椅子座らんかい、と思った。あと授業中の発言の積極性も外国人はやはりすごい。受けた教育がまるで違うことを思い知らされる。日本人が日本で机に座って授業受けようとしたらほぼ確実に、椅子座らんかい、と言われるし、それ内容と関係なくね、と言い返していたら最終的に生徒指導室で威圧的なオーラを放つ体育教師数人などに囲まれるはめになる。優劣どうのよりこれが違いである。

ではバンクーバーにおいてはどうすべきなのだろうか。我々日本人も西欧人を見習って机に座って授業を受けるべきだろうか。授業中よく注意された「おしゃべり」を率先してしていくべきだろうか。多分そんなことしなくていいのではないか。だって、机に座って色々喋りながら授業を受けるのが西欧の文化なら、机に座って黙って先生の話を聞いて指示に従うのが日本の文化だから。異文化体験したいのならばすればよい。だがきっと、日本人は外国人と比べて、消極的だ引っ込み思案だシャイだみたいな劣等感から無理やり西欧の人がやってるようなことをするのは滑稽ではないか。そう思っている時点で、あなたが模倣して埋めようとしている西欧への劣等感をむしろくっきり表してしまっている。劣等感を消すための努力がむしろ劣等感の表れになるほど皮肉な話もあるまい。世の常だけど。

とはいえちょっとしゃべらなさすぎると思う。日本人。

♯62 「死線や修羅場を越えてきた」

成長とは当たり前のレベルが上がることだ、と為末大は言った。これはとても深い次元で僕にモチベーションを与えてくれる言葉となった。周りのレベルに自分がついていけないとき。周りのレベルの低さに甘んじて努力を怠るとき。成長したいと思ったときの初動について。などなど、思い起こす時は多い。試しに、高校のレベルについて考えてみる。なるほど難関とされる高校からは、やはり難関大学への進学が普通である。そしてそれよりランクの低い大学へ行くと、落ちこぼれになる。だが、それほど難関でない高校からすれば、その落ちこぼれが行った大学が大成功と見なされているのだろう。その高校からすればたいした秀才である。結果が同じなのに片方は落ちこぼれ、片方は秀才となるこの理由について考えてみると、もちろん最初に元々の地頭の良さなどと言ってしまえるわけだが。僕には前からどうもそうは思えない。僕はこの違いの理由が、「甘んじて落ち着くとまあこのレベルだよね~」という印象を流布する周囲のレベルが違ってしまったということだと思う。そして実際、そのような印象操作というか、ある意味洗脳と呼んで差し支えない周囲からの圧力が集団を同質のレベルにしてしまっていると思う。

ところで、自分の経験に説得力を持たす言葉として、こんなものがある。

「今までどんだけ修羅場をくぐり抜けて来たと思ってるんだよ」

理解に難くはないがあえて分かりやすく言い直すと、

「今回の苦難よりももっと大変な状況を経験してきて、そのレベルに僕は慣れている。だから僕にとっては、今回のレベルはそんなに深刻なレベルじゃない。簡単だ」

ということになるだろう。「慣れ」というのは人間の能力の中でかなり重要なものである。小さいときに歩くことを覚えてから今まで歩けているのも「慣れ」言葉をしゃべっているのも「慣れ」手を洗うのも、お風呂で体を洗うのも、ご飯のときにお箸を使うのも全部「慣れ」による産物である。仮に、十年間お箸を使わなければきっと十年後急に箸を渡されてもうまく使えないだろう。人としゃべるのも然り、手を洗うのもお風呂で体を洗うのもまた然りとなる。

しかし実生活においての実感を考えてみる。僕たちはどうも、そのようなただ「慣れているから」出来るだけの事をさも「能力」であるように感じている。お箸を使う能力。人としゃべる能力。例にあげた行為ならまだ「慣れ」であると気づきやすいが、全てそうである。「面白いことを言う能力」「人を感動させる能力」「早く走れる能力」「英語を話せる能力」「人をまとめる能力」

天賦の才を反論点とすることはもちろん可能だろう。しかし、人が「私には早く走れる能力がない」と口にするとき、それはほぼ確実に「慣れ」不足、つまり「ただの練習不足」である。根拠はないが、どれだけ天賦の才を欠いていたとしても、必要な分だけただ単純に「慣れ」れば、自分には早く走る能力がないとのたまう必要はなくなるくらいには上達できるのではないだろうか。

僕は間近に人の死を体験したことがない。生まれたときにすでに母方の祖父母はいなかったし、父方の方は今も健在である。当然ながら「その年にもなって親族の葬式にも出たことがないのか、さっさと経験してこい」などと言ったりするのはただの暴言である。しかし、この世の中そんな雰囲気はごまんと感じられる。若造の経験不足をああだこうだいう老人とかである。

きっと我々に必要な能力は、個人が自由に出来る限りにおいて、そしてまた、人生の必要な段階において適切な量の「慣れ」をしていけるよう周囲の環境を能動的に選択していけるというものだと思う。「慣れてるかどうかだけの話じゃん!」というのが、案外いつか重要な局面で牙をむいてくる可能性がある。僕も時間と若さのあるうちに、時間と若さがないと出来ない「慣れ」をたくさんしていきたいと思う。