隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

♯66 仁義好かんなら筋の歯ごたえ

やっぱ恩には恩だなあと思う。仇には仇。既に施された大恩を返すのに人生を懸けて臨まねばと思う。ただ恩の返し方。例えばお金を払えばいいものでもなし。返せない恩の正体とは結局こんな自分に割いてくれた時間の価値か。忘れちゃいけないと思う。反対に今僕の前に立っているこの人は僕の時間をどれほど尊重してくれているのか考える。システムに判断を委ねぬよう。自分の価値は自分で考えられるよう。便宜的な換算で盲目になってしまわないように。

 

時間の恩はもう返せないわけだから、返し方は工夫しなければならない。その人に誠意を込めて何かをしてあげたりする。自分の誠意を無価値だなんて思わぬよう。誠意は大切だ。それだけで一生衣食住に困らないで生きていけると信じている。でもそれでも返せないなら自分に時間を割いてくれたように、僕もまた他の人に時間を割けばいい。そうすればきっと許される。言うなれば贖罪だ。

 

思えば仁義を意識し始めたのは中学生の時だった。僕はいかにして僕であると言い続けられるのかが分からなかった。尾崎かよ。家族に接する無口な自分と、友達とふざけて下劣な事に手を染める自分。ピアノを習っていたおばあちゃんの先生には何故か優等生のような接し方をした。外面でかしこぶって腹で打算的なことを滔々と練っていた自分。何をしても結局自分は自分だと今にしては随分青臭いことを考えていたなあと思うけど、その時は問題だった。死ぬべきとさえ考えた。アイデンティティーだ。そこで仁義だよ。恩には恩、仇には仇。なんて簡単な理屈なんだ。強い筋を一本そこで通すことができる。仁義がないなら筋は通らぬ。人間性の真理を発見した気がして嬉しかった。それが深く長いただの頑固者の誕生だった事には気づけず。

 

仁義仁義言ってる人はきっと不安なんだろうと思う。無償で誰かが自分を助けてくれると思えないから、そういう契約を好むのだ。誰かを助けたのに、助けてくれなかったらちゃんと恨めるもの。だから仁義という言葉の中の自己満足を発見できればきっとその言葉との付き合い方も分かる。うだうだ言っても、助けたから助けられる、助けられたから助けるの理屈は最強だから。筋が通る。ほどよい噛みごたえの筋が通る。仁義を好まないんだったら、そいつは、ふにゃふにゃで、食べたか食べてないかも思い出してもらえないような人間だ。そんな事になってしまうのはちょっと困る。

 


今日もしっかり世界を見る! 悲しいくらい主観的な視覚で見る! 主観的だけど、かならず自分の脳みそで考える! こんな僕に、一体誰が手を差し伸べてくれているか。一体誰が僕を軽んじているか。しっかりと見るのだ。どんな一瞥も忘れちゃいけない。恩には恩、仇には仇。仁義だ。これまで恩をもらった全ての人たちのために生きなければいけない。そして筋の通った人間になりたい。信頼されたい。

 

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