隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

♯58 時間はロマンだ

幼い頃からモヤモヤしていて、でもきちんと全貌を掴みきれず、ちゃんと言葉を当てはめられなかったものにようやくたどり着けた気分。時間。時間だった。時間こそが、僕があらゆる手段を講じて追求していかねばならないものだと気づいた。

それは概念的で便宜的に作られた記号だと言える。時間がなければ人と約束することができない。「太陽があの山のあたりに来た頃」が関の山か。曇ったらおしまいである。腕時計があれば天候の不規則性を無化することが出来る。では腕時計が狂ったらどうなるだろう。いやそもそも我々はどうして腕時計が狂ったと認識できるのか。そもそもこの世で最も正確な時間を刻んでる時計はどれだ。グリニッジ天文台か。人体か。うるう秒ってなんだ。

時間というものを考えるには円のイメージと直線のイメージがある。円のイメージは循環で、人工的な繰り返し。直線のイメージは自然的で不可逆的な一方通行。不可逆という言葉は怖い。取り返しがつかないってのも怖い。二度とという言葉も窮屈。僕らは円のイメージで作られた社会のせいで日々をのうのうと過ごし、自然的な直線のイメージでそれを後悔する。一年後に同じ日は来るのに歳は一歳増える。しかし地球が太陽の回りを周期的に廻っているのは事実。いっそ周期など無い方が今日を良く生きれるのだろう。不安で夜も眠れないだろうけど。

時は「過ぎ去る」という表現が似合うが、僕は「積もる」の方が好きだ。時は人を強くもし、弱くもするのに目の前をただ過ぎ去っている訳がない。時は、過ぎ去るというには「今」にその痕跡を残しすぎている。目に見える痕跡と見えない痕跡があるけど、象徴的には見える痕跡が重要で、久しぶりに開けた倉庫の埃とか、引き出しの奥にずっとしまっていた紙にへばりついている輪ゴムとか。時が積もった様子はノスタルジーなしでは見れまい。

いろんな問題は元をただせば全て時間に関わるような気がする。愛も正義も真実も。因果の問題も時間の範疇にある。鐘を叩いたから鳴ったというよりも、鐘を叩いた時点と、音が鳴った時点が時間的に短いから我々はそこに因果関係を見出だす。しかしここまで考えてしまうと懐疑主義になって世界五分前仮説になってしまう。

楽しいことをしてたら時間は一瞬で、苦しいことをしてたら時間は長いらしい。時間はずっと均一に刻み続けている、という事実は僕にとっておおよそ最近の科学的事実のなかで最も信じがたい。寝ている時間とか。一瞬じゃん。一瞬。一回の瞬きと書く。時間を瞬きで表現するセンスはすごい。ところでうちの親父はトイレに一瞬で行ってくるという表現をよくする。人によって示す幅が異なる。宇宙にとっては地球が存在しているのも一瞬。人が今っぽく生きているのも一瞬。人によって状況によって時間の進み方は異なるってのはアインシュタインが既に。五億年スイッチという漫画もメジャーで周知に。一瞬の中に永遠があるってなんかロマンチック。ということは永遠が一瞬で過ぎていたりもするんだろうか。今日僕は何度永遠を過ごしただろう。数学と哲学が混ざるところ。アプローチの仕方が違っただけっていうのは面白い。

時間旅行が出来たらどうなるか。ワクワクするけど、やるともう普通に楽しくは暮らせなくなるだろう。ゲームで、負けてもセーブポイントに戻るだけみたいな心境なら、人生とゲームを区別できまい。ミスってもやり直せばいいなんてチートが出来てしまったら勝利の美酒も味がなくなる。ということは、やってしまった失敗とどう向き合っていくかがやっぱり人生の一番大切なところなのかな。

時間を擬人化するならどんな性格だろう。意地悪かな。誠実かな。道化。卑屈。活発。おしゃべりかな無口かな。タキシードでビシッと決めてそうだし、ホームレスみたいに汚くて臭そうってのもひねりがあって悪くない。見る人によってそれは変わるだろう。そこは普通の我々人間と同じ。やっぱり腕時計は何個もしているのかな。地球にはたくさん子午線があるから大変だ。かといって地球に掛りきりってこともないだろう。でも、それだけたくさん腕時計を着けていてもいつも見るのは胸ポッケの金の懐中時計。

時間はロマンだ。