隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

♯49 なぜ日本人の英語はダサいのか

ときどき、英語でディベートをやったりする。バンクーバーの学校にはブラジル人が多くて、次にアジア人。日本人、韓国人と台湾人。中国人は学校にはあまりいない。街にはたくさん。たまにスペイン人やドイツ人、フランス人。シリア人とも少し話した。ディベートは普段の会話以上にとっさの反論と自己主張が必要となる。ユーモアはあればあるほど良いが、良質な意見ありきである。

ディベートが行われるとしばしば日本人は何も話さなくなる。ダサい。先ほどの休憩時間まで日本人同士で日本人同士にしか通じない英語で盛り上がっていた彼らが、先生の「Go ahead」の号令と共に一様に口を閉ざすのである。なんかダサい。残るのは他の国の人々の活発な意見論争。「How about you?」と聞かれて5秒黙ったあと彼らが発するのは「I think…」「I think so」「I don't know」ちゃんとした意見も持ってないのに話のリズムを崩すなと言わんばかりの他の面々。ダサい。そのうち耳まで真っ赤にした哀れな日本人はうわ言のように「sorry…sorry」などと口走るから火に油。ダサくて見てられない。あれ、これ俺じゃん。

しかしこれは僕の周りだけ見てもそこかしこで見受けられる現状だ。日本人の英語は何かまどろっこしくて、聞くに堪えない。なんかダサい。何故だ。そう言えば、前にもこんな議論を書いて、その時は僕が英語をうまく話せない原因は「話すことがない」なのではないかとしたが、ここでは勇気をふりしぼり「日本人」という、より大きなくくりで考えてみることにする。

さて、ここで一つ確かめなくてはならないことはこれである。

①このダサさは日本人にのみ当てはまるのだろうか

僕の見立てによると韓国人、台湾人にも当てはまる。だが学校ほぼ全ての日本人にこれが当てはまるのに対し、この二つの国には当てはまらない人もしばしば見受けられる。ここで例えの対照としてブラジル人を引き合いに出してみる。僕の見る限りブラジル人でこれが当てはまる人は見たことがない。よって次の疑問はこれである。

②日本人はブラジル人より英語の知識を持っていないのか

興味深いことに、それがそうでもない。文法、単語、頻出フレーズといった、しばしば話すのに必要だと断じられるこれらの知識においてはこの二つの人種の間にそう大きなギャップはないように見受けられるのである。むしろ筆記においては日本人が得意とするところで、これが災いして能力以上のクラスに振り分けられる悲劇がたまに起こる。

日本人の英語がダサさが知識不足によるものではないことは再三明らかにしてきた通りである。ここからがなかなか説得力ある説明ができない部分であるが、発想を逆転させてみよう。つまりなぜ日本人の英語はダサいのか、ではなく「日本人と例えばブラジル人の話し方にはどんな違いがあるのか」これを観察する必要がある。重ねて言うように、英語知識の習得量がほぼ同一な日本人とブラジル人を対象として考えている。一つ目がこれである。

①ブラジル人は日本人より話したいことがはっきりしている

前の結論の通りである。話始めてから口を閉じるまで、彼らは日本人より話す内容に迷いがない。僕の見立てによると、日本人はみんな自分が話す際に迷いを感じている。「自分がしゃべっていいのかな」「水を差さないかな」「しゃべるとしたら間違いを犯して笑われないように」「自分の英語は通じているのかな」等。「いや日本人でも人によって違うだろ」という意見が当然出てくると思うが、これは少し的外れであると言ってしまおう。何故ならこのような迷いは日本で「空気を読む」「社会性」「協調性」「でしゃばらない」と呼ばれているものだからである。確かにこれらの能力は人によって違うが、小中高大とひたすらこれらを美徳と叩き込まれる教育を義務として受けねばならない日本人はやはり他の国の人々と比べると圧倒的に全員均一にこれを持っているのである。反吐が出る。

②ブラジル人は日本人よりも思考が英語に直結している

英語を話そうと試みる日本人はおそらく「言いたいことを決める」→「日本語でその文章を整える」→「一つ一つの部分を文法、単語を思い出しながら英訳する」→「話す」というステップを踏んでいる。日本人にとっては英語を話し出すというのは何とも大変な作業なのである。話すまでに4つもすることがあるから。不器用な人であれば、まるで高校の英語のテストの英作文のような意識でそれをするからさらに骨が折れる。そもそも日本人にとって英語は勉強であるという意識が根強い。ここから、日本人は思考と実際に口から出る言語が乖離していると言うことが出来る。これに対してブラジル人は見たところそのようなステップを踏んでいない。僕はブラジル人ではないので本当のところは分からないが(これ書く前に聞けば良かった)思考とが英語により近く結ばれているのではないか。例えば「Oh my god」という感嘆文を挙げてみる。いくらかの日本人は英語を話している感を演出するためときどきこのようなことを言うが正直言ってはたからみてものすごくダサい。この類いの感嘆詞を話す際の日本人がもっともダサいといって過言ではない。それに比べブラジル人の「Oh my god」のなんと自然なことか。これは何が原因かというと、おそらく日本人は感嘆したとき心の中でまず「すげえ!」「マジかよ~」と既に言ってしまっているのである。そのあと、自分のその気持ちを表す言葉として「Oh my god」と言っているのだ。しかし想像に難くないようにこのような感覚の言葉は論理性と恐ろしく相性が悪いため、結果として何とも居所の悪いものになってしまっているのである。脚本のセリフをうまくいい感じのニュアンスで読めない原因と少し似ている。ではなぜブラジル人が日本人より思考が英語に近いのだろうという疑問がわいてくるが、これはやはりブラジルの方が日本より英語圏文化への距離が近いからではなかろうか。これは手垢の付いた推測であり、ここではその手垢以外の証明の手段は割愛するが大方検討外れではないように思える。

③ブラジル人は日本人より英語を話すより使っている

これもそう真新しい話ではない。が、しばしば真新しくない議論は内容が空洞化して、いざその内容を密にしようとすると何も語れないという事がある。学びて思わざればすなわちくらしという孔子の言葉はそのようなことを表しているように思う。話が逸れたが、簡単にいってしまえばこれは「英語は手段か目的か」というものである。このような言い方をすると大抵の日本人がこぞって英語は手段であると主張するのであるが、こと実際に英語を話す段になるとそんなことをすっかり忘れてしまっているのである。少し誤解を恐れず言ってしまうと、ブラジル人(というかネイティブ)が「意見→英語」という順序で英語をとらえているのに対し、日本人は「英語→意見」という順番で言語をとらえてしまっている。しばしば日本人は英語を話すということをそれ一つの独立した能力としてとらえがちであるが、それは実際は「何としてもこの意見を伝えたい」とか「表現の仕方は分からないがもし伝われば必ずある程度自分の意見は評価されるはず」というような強いコミュニケーションへの意欲があってこそのものであり、能力というよりあくまで日々のコミュニケーションの延長にあるものとしてとらえた方がいい。また話すか使うかという問いは他者がいるかいないかというふうにも言い換えられるのではないか。英語を「話し」ている人にとって重要なのは自分が英語を話していることであってしばしば伝わっているかどうかでない。対して英語を「使っ」ている人にとっては伝わっているかが重要であって自分が英語を「話し」ているかは些事なのだ。日本人がもし話すより使うという認識に改めれば、ノロノロと自分が話せているかを確認するようなコミュニケーションに邪魔なタイムロスは省かれるであろう。そしてそのノロノロこそが日本人のダサい英語の最大の特徴である。


長くなったが、以上がなぜ日本人の英語はダサいのかについて考察した結果である。あらゆることに形から入る僕からするとこのような問題が目下一番大事なところなので、日々こんな感じで考えている次第である。英語においては「流暢」の対義語は「ダサい」なのではないか。思えば僕は自分がこうなりたいと思ったものを模倣し、たまに入れ込みすぎてよくわからない感じになりながらここまで生きてきた。中学生の頃に執筆した暗黒の厨二ノートがその典型であろう。しかし合気道に見取り稽古があるように、見よう見まねというのは古来より最も重要な習得手段とされてきたものである。教えを請わなければ正しく習得できないというならば何においても何かにおんぶにだっこになってしまう。演出から指示がないと何もできない役者のように。