隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

♯35 問はず語らず

数年前にどこかで聞いた言葉をずっと心の片隅に置いている。

「汝の過去はその現在にて知らるべし」

不思議なもので、いつまでも覚えている言葉というのはガラスケースに飾られて大事に渡されるようなものではないことが多い。むしろ一瞬の会話で吐き捨てられたようなものであったり、大事な言葉を言った風な人の放つ次の言葉であったりする。これもそのうちのひとつ。

ツイッターフェイスブックにブログに、みんな自分の気持ちと状況を聞かれてもないのに世界に発信している。誤解をされないため、解くためだろうか。虚勢を張るためであろうか。元気にやってますの報告だろうか。

「あの時はこうだったけど誤解しないで、今はこうなってるから」
「みんな僕を見くびってるけど僕はこんなに豊かな世界観をもっているんだからな」
「アタシの毎日はこんなに充実してるっぺよ」
「争いを俯瞰的に分析している私」
「その俯瞰的な人をさらに分析しているボクチン」

すごいなあ、あいつの毎日は。俺とは大違いだ。で、会って話してたらどうも違う。そんなに充実して本を読んで面白おかしい日々を送ってる人間なのにどうしてそうしょうもないのだろう。なんて思ったり。当然僕も見栄をはって生きているわけだからそう思われる瞬間はいつでもあるだろうけれど。でもこの言葉を知っている時点で少し頭は抜けている。なんて。

結局、現在の自分が全てなのではないかと思う。本当に素晴らしい人間なら回り回って現在そんなにすごくなくても何かは滲み出ているのではないか。その逆もしかり。過去の武勇伝をいかに滔々と語られたところで、現在がそれに釣り合っていなければ、そんなお話に一体何の意味があるだろう。それにショーンKの例もある。思った以上にこの世界には大ホラ吹きが溢れている。思った以上にウソつきは身近にいる。気がする。

口下手であったり、人見知りであったり人の性質は様々で、人を見る目を鍛えることは難しい。だから僕はせめて人に見出だされたい。人を見る目の肥えている人に「こいつは久々に本物だ」と思われるような人間でありたい。どこかの分野においてはで良いけれど。だから筆を置こう。問われてないから語らない。何も言わず実績を重ねよう。「The records show!」なんて言葉を吐いて死んでいけるようにエルビス・プレスリーのように。