隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

♯11 センチメンタル・オブ・洗濯干場

明治から建てられているのではと疑ってしまうような古い石の家、昨日建てられたようなレンガの家、漁師が仕事のために作ったようなトタンの家、道を歩いていると色んな家があるけれど、どの家も晴れた日には洗濯物を外に干す。白いTシャツが、その含んだ水分をはなつ代わりに空の青色を染み込ませてしまうような、そんな気持ちのよい日には気分新たにみんな洗濯物を外に干す。みんな明日の天気を正確に知りたがるけれど、それはすべて洗濯物を外に干せるか干せないかを知りたいがためである。

そんな誰しも行う営みも、つぶさに一つ一つの物干し竿を見てみると、無限のパターンを見いだすことが出来る。空き巣は洗濯物を見て盗みに入る標的を決めるというが、彼らは盗人の前に一人の詩人である。

【いくらかの例】

・着古されたペラペラのシャツは、それを見せる相手を必要としない中年男のそれだろう

・小物干しに大量に留められた五本足靴下は更年期に手足の冷えに悩む主婦のそれだろう(水虫対策の可能性もある)

・やけに鮮やかな紫色のジャージの上下に黄色の刺繍が小さくあしらわれているのは中学生か高校生のそれだろう(大きさから察するに女子だろう)

・流行の発信地から遠く離れた山と海の町に干されたいかにも若者らしいダメージの入ったジーンズはここで生まれ育ったが都会を夢見て離郷し久方ぶりに親の様子を見に帰ってきた放蕩息子のそれだろう

・まだ若干の湿り気を残すウェットスーツは70を越えてもまだ元気に海に潜るお爺さんのそれだろう

・あの黒いパンツはなんだろう。


あらゆる方向に思いを馳せるとそれは宇宙を解き明かそうとする天文学的野心のようにきりのない話になってくる。しかしどうして、一つ一つの衣服でさえ無限の可能性を秘めているというのに、驚くことにはその一つ一つの組み合わせからさらに無数の可能性を考えることができることである。家族である。

【いくらかの例】

・「着古されたペラペラのシャツを着用する」中年男と「小物干しに大量に留められた五本足靴下を着用する」主婦は、今年で結婚36年目を迎える典型的な冷めた夫婦である。

・「着古されたペラペラのシャツを着用する」中年男と「小物干しに大量に留められた五本足靴下を着用する」主婦の間には、「ここで生まれ育ったが都会を夢見て離郷し久方ぶりに親の様子を見に帰ってきたいかにも若者らしいダメージの入ったジーンズを着用する放蕩息子」となる長男と、「やけに鮮やかな紫色のジャージを着用する中学生か高校生」の長女がいたが、「ここで生まれ育ったが都会を夢見て離郷し久方ぶりに親の様子を見に帰ってきたいかにも若者らしいダメージの入ったジーンズを着用する放蕩息子」はバンド活動に夢中になる余り、家の仕事を捨て、ついには家を捨て、単身上京したためほぼ勘当状態になっており、「やけに鮮やかな紫色のジャージを着用する中学生か高校生」の長女もその影響からか非常に難しい時期に入っており、毎日夜遅くまで良くない友人たちと近くの公園でたむろしている

・「70を越えてもまだ元気に海に潜るまだ若干湿り気を残すウェットスーツを着用する」お爺さんは息子夫婦が「ここで生まれ育ったが都会を夢見て離郷し久方ぶりに親の様子を見に帰ってきたいかにも若者らしいダメージの入ったジーンズを着用する放蕩息子」を見放したことで、一層その彼の身をいつも案じている、何故なら「ここで生まれ育ったが都会を夢見て離郷し久方ぶりに親の様子を見に帰ってきたいかにも若者らしいダメージの入ったジーンズを着用する放蕩息子」に最初にエレキギターを聞かせたのは彼だったからである

一体彼らはどこで人生の岐路を誤ってしまったのだろう。しかし息子は、数々の試練ともいえる日々を越えて、今日また自分のルーツとなる家に帰ってきた。母は久しぶりに息子のジーンズを洗濯し、そして久しぶりにそれを物干し竿に干した。息子は久しぶりに自分以外の人間が使う洗濯機の音を聞き、自分以外の人間が干す自分のジーンズを見た。彼は懐かしい実家の洗剤の香りと、故郷の空気を存分に蓄えたジーンズを独り履いたとき、一体何を思うのだろう。極めて感傷的である。


しかし、そのような感傷的な気持ちを大切に心にしまい込みながらも、ここにおいて最も重要な問題はおおよそ一つである。


『あの黒いパンツは誰のものなのか』

今日も明日も明後日も、みんな、晴れた日は洗濯物を干す。日当たりのいいところに干す。いくばくのセンチメンタルだけが乾かない。