隔日おおはしゃぎ (Road of座)

Road of座(ロードオブザ)の代表大橋拓真が、ほぼ隔日でコラムを書くところ

♯59 うねり

久々にブログを書く。伊勢川から、これはもはや隔日じゃなくて気まぐれおおはしゃぎだと揶揄されたがその通りである。しかしそれは詰まるところ波であり、ウェーブである。どんな海にも干潮と満潮があって、しけとなぎがある。会う人みんなが想像より都合よく動いてくれる日があったり、鳥のフンがつむじに落ちてくる日がある。氷河期があってそれが一万年前に終わったのもまた一つ。仮にそれが歴史の必然であるならば、況んやこのブログをや。

プロとは納期を守ること、とどこかで読んだ。金を取るからにはそこのけじめが最低ラインだと。怠惰な自分には極めて有効な箴言であるけれど、この考え方はあまり好きではない。見も蓋もない感じがしてしまうから。例えそうだとしても、言葉でそう言ってしまったらプロという途方もない広大な世界に納期という低い天井をしつらえてしまう気がするから。そしてそもそも僕はプロではない。

何か非常に重要で、いま必ず記録しておかねばと思い筆を執り序文を書くつかの間に既に忘れられたその非常に重要な部分。これもまたうねり。記憶のうねり。ふと忘れてしまったことは思い出そうとしても思い出せないで、しばらく経ってから、場合によっては一年や二年後に急に浮かんだりする。残念だと思うけど、自分にとって本当に大切だと思うことが「あっそういうことだったのか」と心に腑に落ちている時間は得てしていつもすごく短くて、書き残すためのペンと紙を探している間にこぼれ落ちて戻らなくなる。

このブログでは主に普段生活していてふと気づかされたり、教訓になったりしたことを極めて主観的な立場で書いてきたが、当然ブログの文章を定期的に(不定期的に)書くという営みからもいくつかの重要な示唆を得ることが出来てきた。一つは、人の目に触れる文章を書くというのはなかなかのストレスになるということ。二つ目は、自分は驚くほど少ない語彙と文法で文章を紡いでいたということ。三つ目は、どれだけ自分の臭いを消した文章を書こうとしても完全に消すことは出来ないということ。四つ目は、文章には静けさがあるということ。五つ目は、自己表現はすなわち自分の天井を周知してしまうということ。

黙して語らず大物感を出すのも良いけれど、成長はない。「恥を忍んでさらけ出すことが大切だ。」と吉田兼好も言っていた。どうせさらけ出すなら若いときにしといた方が良い。年を食って肥えたプライドと年少者への示しのつけ具合なんかに気が散ってしまう前に、スタート地点に立った方がいい。察されない文化に触れて一層その事が衝撃的に思い知らされた。誤魔化さず、卑屈にもならず尊大にもならないで自分にないものを吸収する態度とは何なのだろう。面倒な対話をスキップして西欧技術を輸入した猿真似が、やっぱり大和魂だ!という逆ギレに帰したのは偶然でもなかろう。

♯58 時間はロマンだ

幼い頃からモヤモヤしていて、でもきちんと全貌を掴みきれず、ちゃんと言葉を当てはめられなかったものにようやくたどり着けた気分。時間。時間だった。時間こそが、僕があらゆる手段を講じて追求していかねばならないものだと気づいた。

それは概念的で便宜的に作られた記号だと言える。時間がなければ人と約束することができない。「太陽があの山のあたりに来た頃」が関の山か。曇ったらおしまいである。腕時計があれば天候の不規則性を無化することが出来る。では腕時計が狂ったらどうなるだろう。いやそもそも我々はどうして腕時計が狂ったと認識できるのか。そもそもこの世で最も正確な時間を刻んでる時計はどれだ。グリニッジ天文台か。人体か。うるう秒ってなんだ。

時間というものを考えるには円のイメージと直線のイメージがある。円のイメージは循環で、人工的な繰り返し。直線のイメージは自然的で不可逆的な一方通行。不可逆という言葉は怖い。取り返しがつかないってのも怖い。二度とという言葉も窮屈。僕らは円のイメージで作られた社会のせいで日々をのうのうと過ごし、自然的な直線のイメージでそれを後悔する。一年後に同じ日は来るのに歳は一歳増える。しかし地球が太陽の回りを周期的に廻っているのは事実。いっそ周期など無い方が今日を良く生きれるのだろう。不安で夜も眠れないだろうけど。

時は「過ぎ去る」という表現が似合うが、僕は「積もる」の方が好きだ。時は人を強くもし、弱くもするのに目の前をただ過ぎ去っている訳がない。時は、過ぎ去るというには「今」にその痕跡を残しすぎている。目に見える痕跡と見えない痕跡があるけど、象徴的には見える痕跡が重要で、久しぶりに開けた倉庫の埃とか、引き出しの奥にずっとしまっていた紙にへばりついている輪ゴムとか。時が積もった様子はノスタルジーなしでは見れまい。

いろんな問題は元をただせば全て時間に関わるような気がする。愛も正義も真実も。因果の問題も時間の範疇にある。鐘を叩いたから鳴ったというよりも、鐘を叩いた時点と、音が鳴った時点が時間的に短いから我々はそこに因果関係を見出だす。しかしここまで考えてしまうと懐疑主義になって世界五分前仮説になってしまう。

楽しいことをしてたら時間は一瞬で、苦しいことをしてたら時間は長いらしい。時間はずっと均一に刻み続けている、という事実は僕にとっておおよそ最近の科学的事実のなかで最も信じがたい。寝ている時間とか。一瞬じゃん。一瞬。一回の瞬きと書く。時間を瞬きで表現するセンスはすごい。ところでうちの親父はトイレに一瞬で行ってくるという表現をよくする。人によって示す幅が異なる。宇宙にとっては地球が存在しているのも一瞬。人が今っぽく生きているのも一瞬。人によって状況によって時間の進み方は異なるってのはアインシュタインが既に。五億年スイッチという漫画もメジャーで周知に。一瞬の中に永遠があるってなんかロマンチック。ということは永遠が一瞬で過ぎていたりもするんだろうか。今日僕は何度永遠を過ごしただろう。数学と哲学が混ざるところ。アプローチの仕方が違っただけっていうのは面白い。

時間旅行が出来たらどうなるか。ワクワクするけど、やるともう普通に楽しくは暮らせなくなるだろう。ゲームで、負けてもセーブポイントに戻るだけみたいな心境なら、人生とゲームを区別できまい。ミスってもやり直せばいいなんてチートが出来てしまったら勝利の美酒も味がなくなる。ということは、やってしまった失敗とどう向き合っていくかがやっぱり人生の一番大切なところなのかな。

時間を擬人化するならどんな性格だろう。意地悪かな。誠実かな。道化。卑屈。活発。おしゃべりかな無口かな。タキシードでビシッと決めてそうだし、ホームレスみたいに汚くて臭そうってのもひねりがあって悪くない。見る人によってそれは変わるだろう。そこは普通の我々人間と同じ。やっぱり腕時計は何個もしているのかな。地球にはたくさん子午線があるから大変だ。かといって地球に掛りきりってこともないだろう。でも、それだけたくさん腕時計を着けていてもいつも見るのは胸ポッケの金の懐中時計。

時間はロマンだ。

♯57 どこから来たのか

いま着ているコートはとてもあったかい。去年の冬の始めに大阪のエキスポシティで買ったやつで、めっちゃ高かった。長く着るつもりだけど今はまだまだ新参。

いまかけているメガネは汗でよくズレる。前までかけていたメガネは軽井沢の温泉に入ってる最中にパキッと折れてしまったので無念ながら。買うとき時間がなかったため、フィットを確かめず買ってしまったためあまり馴染まない。

いま使っているスマホは二代目。前に使っていたスマホは高校2年から大学一年の二月まで現役だったけど、夜通し充電しても瞬時に20%まで減るというカルマに加えついに充電器を感知しなくなったため降板。愛着から前と同じ色を選んでしまったり、少し傾きだしていたシャープの製品を選んでしまっていたりと散々だがもうすぐ丸2年。水没を二度経験しながらも元気。

考えてみたら、今僕の身の回りを占めているもので、五年や十年現役で活躍し続けているものってあんまりなかった。体の細胞は一定期間で全部入れ替わってるというけれど、そんな感じかな。その分、それがどのような経緯を経て今僕の手元にあるのかよく覚えている。きっとさっきの調子で今持っているものがどこからどんな風に来たのか、全部説明できると思う。

僕自身はどうだろう。父と母の一対の細胞から増えて増えて増えて、そして僕の体は僕がこれまで食べてきた食べ物と飲んできた飲料で出来ているだろう。でもそろそろバンクーバーに乗っ取られてそうだな。じゃあ僕の心はどうなんだろう。と言うと、これまで僕が見てきたもの聞いてきたもの触ってきたもの嗅いできたもの味わってみたもの、インプットしてきたもので出来ているだろう。でもさすがに22年目になると、今の僕のこのポリシーがいつのどんな経験から形成されてるのかとか、あいつとそりが合わないのは過去のどこに原因があるのかとかはもう分からない。分からないけど、きっとそういう経験は「しわ」になっていく。眉間のしわ、目尻のしわ。ほうれい線。ものの場合は埃。埃は誇り。

自分に当てはめて十分考えたら、次は他人について考えてみよう。街を歩く。いろんな人とすれ違う。特にここはバンクーバー。変な人も関わりたくない人も煙たがられてる人もたくさんいる。みんな、今僕が自分の目を通して世界を見ているように、世界を見ている。つまらなそうにバスの運転をしている人がいる。つまらなそうだ。でも彼にも大笑いをしたことがあるだろう。いま着ている服はどこでどういう経緯で買ったのか、なぜ今バスの運転手をやっているのか。そもそもどうしてバンクーバーに来たのか。僕が知ることは無いけれど、聞けばきっと全部答える。道端で薬をやっているのか、ヘラヘラ笑いながら何かをしゃべっている人がいる。寝そべっている。でも彼にも本気でこの人を守りたいと思ったことがあるんじゃないか。いつどこで生まれたのか。少年期の一番の思い出は?いつどうしてドラッグに手を出したのか。いかなるストレスが彼をそこに追いやったのか。彼の身を案じる人間はこの世のどこかにいるのかいないのか。聞けばきっと知っている。そして答える。

殺人とは単なる命の強奪ではない。歴史の蹂躙である。小学生時代地元の絵画コンクールで銀賞を取ったとか、中学で好きな子がいたけどついに話しかけられず卒業したとか、自分より自分のことを知ってるような親友としのぎを削りあった学生時代とか、改めて四六時中話すわけでもない歴史の全てを踏みにじる。裏を返すと、思慮もなく他人の歴史を侮辱するような行為が殺人と蔑むべき対象なんだ。

誰かがここに置いたからそれはここにあるのだし、誰かが持っていってしまったからここにはもうそれはない。ここに何かがあるなら誰かがどこからか持ってきたはずだし、その「どこか」も、別のどこかから持ってこられたからそこにあったわけで、その「どこか」は必ずどこかにある。そして、僕は今ここにいて、誰かが僕をどこかへ連れていく。それは僕だ。

♯56 まつりのあと

お祭りのあとってどうしてあんなにむなしいんだろう。始まる前はあんなにきれいで盛り上がった装飾が急に所在無げになる。着ている服もなんだか、気持ちと釣り合わなくなって不格好になる。忙殺された書類の束が思い出の品に見え始める。かといってそれらが全部取り除かれ始めて、普段の景色に戻っていくのを見ると全力で止めたくなる。でも僕は知っている。片付けを渋って翌日まで持ち越されたお祭りは悲惨なものになるということ。

かつて賑わっていた場所が今は閑散としている時にも同じような気持ちになる。休み時間の始まりと共に教室を飛び出してドッジボールの陣地を他のクラスに奪われないようにしていた小学校の校庭。夕方に見たら何だか切ない気持ちになる。

実家もそうだと思う。毎日当たり前のように五人揃って囲んでいた食卓はいつの間にか二人減って、今は僕もいない。父も単身赴任で高知だから母は今は一人で食卓に座っている。半年に一度くらい一同に介すけど、それはもはや住んでるんじゃなくて滞在しているという表現が正しい。たまに想像するのは、この食卓はいつかはお皿が並ばなくなって、囲む人がいなくなって、上に蜘蛛の巣が張って、ほこりをかぶる情景。おまつりのあと。

イライラするのは、お祭りはずっと続くはずがないという論理的真実である。楽しいことをするには苦しいことが、好きなものを抱きしめ続けるには嫌いなものと向き合わなければならない。夢はずっと続くと現実になってしまう。だから自分で夢を断ち切るタイミングを作らなければならない。自分で断ち切らなければならない。他人に断ち切らせてはいけない。お祭りのあとは、次のお祭りを求めることが健全だ。ぽっかり空いた隙間をまたお祭りで埋めなきゃならない。言うなればお祭り中毒だ。

探さないといけない。次のお祭りを。だけど少しくらい執着してもいいよね。万国旗を倉庫にしまいに行く道すがらとか。

♯55 愛せよガラクタ

実家の押し入れの一番下の段。中学くらいから触ってもいないそこには大量のトレーディングカードゲームが眠っている。遊戯王とデュエマ。どんなカードも戦略次第な遊戯王に比べてデュエマはもうどうしようもないカードがたくさんある。とにかく光るカードを求めて一パック155円くらいを買い続けた軌跡である。今となっては再挑戦しようとも思わないけれど、むかし見てワクワクしたカードは今見てもワクワクするから楽しい。

無我夢中でカードを集める私に姉はよく言った。

どうせあとでゴミになんのに

かくいう彼女も行く先々のレストランの割り箸を集めるという奇行を展開していたのだが、当時の私には合理性で姉に敵うことは無かったため意固地に集め続ける他なかった。あるいは、「勝つには必要やねんもん」であった。何か幼稚な反論だなあと唇を噛んだ記憶である。

だがしかし、それって幼稚なんだろうか。今の自分を満たしてくれるものにお金を払うことは浪費なんだろうか。今しかないとどこかの林先生が言っていたけれど、それとこれとは違う話なんだろうか。必要なものだけが必要なんだろうか。だったらエンターテインメントはどこへゆくのだろうか。

太く短く生きる、と、細く長く生きる、という例えがあってこう聞くと結構答えが割れる。未来の自分と今の自分。苦労を先延ばしにするのは違うけれど、未来の自分をかわいがるように私は今の自分もかわいがりたい。嗜好品がQOLをあげるし、贅沢が時に心を豊かにもする。だんごが腹を満たして花が心を満たす。粋が分かる人でありたい。

♯54 瞬間という魅力

眠る瞬間を感じたい。日の出の瞬間が見たい。南中の瞬間も見たいし、日が赤くなる瞬間も見たい。そして太陽が水平線に沈んでいく瞬間。

賢くなる瞬間を感じたい。記憶した瞬間を感じたい。背が高くなる瞬間を感じたいし、体重が増えた瞬間。視力が0.1悪くなる瞬間。耳が遠くなる瞬間。髪の毛が長くなる瞬間。音階が上がった瞬間。何かに慣れた瞬間。何かが変わった瞬間。成長した瞬間と劣化した瞬間。

瞬間は瞬く間と書く。人は瞬きより早いものを認識できない。確かに目の前で起こっているはずのことなのにそのリアルを感覚で感じることが出来ない。

目には分解能という限界がある。人はあまりに微少な距離は認識できない。確かに動かしたという実感と、認識できないその距離の不協和が明日の景色を曇らせる。

要するにそれが原因だ。人は絶対的には変化しているはずものを変化していると認識できない。機械にここまで信頼を置くこの時代なのに。興味深い錯覚を体験しては感覚器官の不完全さを学んでいる我々なのに。

だからその変化をつかむには「瞬く間」が積もった十分な時間が必要だ。我々の分解能が認識できる距離を生み出すような大雑把で無粋な時間の束が。瞬間というロマンと人のエゴで要請される暴力的な時の束。

今日は久々の人と会うことになる。瞬きより早くて分解能より小さな僕の変化をあなたに捧げる。気づいてね、ぜひぜひ。

♯53 今日はおしばい

今日は記念すべき海外初舞台出演ということで朝からむずかゆい期待にとらわれております。小さくてもこれが僕の初めてで、それが終わったら今日はもうおしまい。一人でなんでもしていい舞台は好き。他人を信じる必要がないから。自分の気持ちさえ持っていくことが出来ればうまくいく。それも難しいんだけど、不確定要素が少ないのはうれしいね。

ただいつもと勝手が違うのは全部英語なところだね。しゃべる言葉全部英語でやらなきゃいけない。とても難しそうだ。KILL BILってあったよね。「ドウヤラ、ウワサガヒトリアルキシテルミタイダネ!」「マダオワッチャイナイヨ!」たぶんネイティブからするとあんな感じに見えるんだろうな。あれはあれでシュールで面白かったけれど、未知の感想を抱かれる可能性というのは怖い。まあ本当に小さな寸劇だから緊張もへったくれもあるまい。演技良かったねとかうまかったよりも前に声大きかったねというreviewをいただけるよう思い切りよくやろう。前にネプチューンのホリケンが他の芸人へのアドバイスで思いきりよくね!といってたことがやけに印象深い。あの人も本当にその言葉一本で芸能界を渡り歩いてそうだもんね。

役はというと、欠席の生徒の安否を忙しくて確かめなかったらその生徒が誘拐されて殺されていて、それを後悔しているというやつ。ひねりはたぶんいらない。そうじゃなくてもドン引きされそうなのに。全くどうなるんだろう。ていうかクラスメイトの僕に対するフェイマスアクターの誤解を早く解きたい。完全に誤解されとる。誤解されたまま真実になんねーかな。

最近ネットフリックスばっかり見ているところを利用してアドリブぶちこんでこう。気がかりは共演者と意思疏通が出来ていないことだけどもう気にしない。

あーあ。バンクーバーに来てまで今日はもうおしばい。